|
===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ 帝 : [みかど] 【名詞】 1. (1) emperor (of Japan) 2. mikado 3. (2) (the gates of an) imperial residence ・ 帝国 : [ていこく] 【名詞】 1. empire 2. imperial ・ 国 : [くに] 【名詞】 1. country
トレビゾンド帝国(トレビゾンドていこく、The Empire of Trebizondand, 1204年 - 1461年)は1204年に東ローマ帝国の首都コンスタンティノポリスが第4回十字軍の攻勢によって陥落した際に、東ローマの皇族が各地に樹立した亡命政権のひとつ。首都はトラペズス(現在のトルコ共和国トラブゾン。英語名トレビゾンド)。 == 概要 == 東ローマ皇帝アンドロニコス1世コムネノス(在位:1183年 - 1185年)の孫アレクシオス・コムネノスが1204年4月、トレビゾンドを占領して建国。コムネノス王朝(1081年 - 1185年)の本流を継ぐものとして、「メガス・コムネノス(大コムネノス家)」と称した。 当初は東ローマ帝国の亡命政権の中では最初にコンスタンティノポリスを奪還する勢いであったが、他の東ローマ系政権との連携を欠いたため、ニカイア帝国やルーム・セルジューク朝に敗北し、小アジア北東部・ポントス地方の地方政権に転落してしまった。しかし、東ローマ帝国滅亡後の1461年にオスマン帝国によって滅ぼされるまで約250年間存続し、史上最後の東ローマ系国家となった。国家としてはあまり強大ではなかったが、東西交易路の途上に位置するその地理的状況はこの国に多くの富をもたらし、また周辺のグルジア・アルメニアなどのキリスト教文化圏との交流も盛んであった。外交上は東方のイスラーム諸勢力、特に白羊朝ペルシアと婚姻関係を基にした同盟関係を結ぶなどして独立維持を図っている。 東ローマ世界の飛び地として、この帝国でもギリシャ正教の文化が継続し花開いた。首都トレビゾンドに残る聖ソフィア聖堂、ポントスの山中に創立されたスメラ修道院(現在は廃院)などがその代表的な姿を今に伝えている。 帝国の住民を構成したギリシャ系の人々は、他のギリシャ人居住地域から切り離されたままオスマン帝国の統治下でギリシャ正教やギリシャ語などのギリシャ的な文化を保持し続け、のちにポントス人と呼ばれることになる。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「トレビゾンド帝国」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|