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トロ・ボラト(、、1482年 - 1523年〔『蒙古源流』の記載に拠る(岡田2004,239頁)〕)とは、モンゴルの大ハーンであるバト・モンケ(ダヤン・ハーン)の長子。『アルタン・ハーン伝』ではトゥル=バイフ(Törü bayiqu)とも表記され、明朝の漢人は「鉄力擺戸」と記した〔吉田1998,232頁〕。父親よりチャハル部を相続し、その後継者と見なされていたが、父よりも早くに亡くなったため、息子のボディ・アラクが大ハーン位を継いだ。ボディ・アラク以後のモンゴルの大ハーンは皆トロ・ボラトを祖とする、チャハル部の部族長から輩出された。 == 概要 == ダヤン・ハーンとその正妻マンドフイ・ハトンの間の長子として生まれた。『蒙古源流』などのモンゴル語年代記では次男のウルス・ボラトと双子であったと記されているが、双子で生まれたというのは疑問視されている〔モンゴル語史料の記述に従えば、マンドフイ・ハトンは3組もしくは4組の双子を続けて出産したことになるため(森川1988,2頁)〕。本来はダヤン・ハーンの後継者と目されていたが、ダヤン・ハーンの生前に亡くなってしまったため、その長子のボディ・アラクが大ハーン位に即くことになった。 しかし、トロ・ボラトの弟でジノン(ハーンに次ぐ権威を持つ称号)を称していたバルス・ボラトはボディ・アラクがまだ幼年であることを理由に大ハーン位を一時簒奪した。後に成長したボディ・アラクは改めて大ハーン位に即き、以後モンゴルの大ハーンはトロ・ボラトの子孫であるチャハル部の王家から輩出されるのが慣例となった。これはトゥメト部のアルタン・ハーンなどチャハル部を凌ぐ実力者が現れた時であっても覆されていない。 『蒙古源流』ではバルス・ボラトの簒位を記していない〔『蒙古源流』がバルス・ボラトの簒位を記していないのは、著者サガン・セチェンがバルス・ボラトの子孫であり、先祖の行為を隠そうとしたためであると推測されている(岡田2004,242頁)〕が、その他のモンゴル年代記、同時代の漢文史料にもトロ・ボラトが早世したためバルス・ボラトが大ハーン位を得たことが記されている。明代の漢人鄭暁は「正徳の間、阿爾倫台吉(トロ・ボラトとウルス・ボラトを混同している)がヨンシエブのイブラヒムに殺され、その子供達が幼かったために、阿著(バルス・ボラト)が後を継いだ」と記している〔和田1959,523頁〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「トロ・ボラト」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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