翻訳と辞書
Words near each other
・ トンボ鉛筆
・ トンボ飲料
・ トンポウロウ
・ トンポーロー
・ トンマッコルへようこそ
・ トンマージ
・ トンマーソ・トラエッタ
・ トンマーゾ・アルベルト・ディ・サヴォイア=ジェノヴァ
・ トンマーゾ・カンパネッラ
・ トンマーゾ・ジョルダーニ
トンマーゾ・ダクイーノ
・ トンマーゾ・ディ・サヴォイア
・ トンマーゾ・トラエッタ
・ トンマーゾ・フランチェスコ・ディ・サヴォイア
・ トンマーゾ・ブシェッタ
・ トンマーゾ・ベルニ
・ トンマーゾ・ランドルフィ
・ トンマーゾ・ロッキ
・ トンモト
・ トンモート


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

トンマーゾ・ダクイーノ : ミニ英和和英辞書
トンマーゾ・ダクイーノ[ちょうおん]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

トンマーゾ・ダクイーノ ( リダイレクト:トマス・アクィナス ) : ウィキペディア日本語版
トマス・アクィナス[ちょうおん]

トマス・アクィナス(、1225年頃 - 1274年3月7日)は、中世ヨーロッパイタリア神学者哲学者シチリア王国出身。ドミニコ会士。『神学大全』で知られるスコラ学の代表的神学者である。カトリック教会聖公会では聖人、カトリック教会の33人の教会博士のうちの1人。イタリア語表記では''トンマーゾ・ダクイーノ'' (Tommaso d'Aquino)。
== 生涯 ==
1225年ごろ、トマスは南イタリアの貴族の家に生まれた。母テオドラは神聖ローマ帝国ホーエンシュタウフェン家につらなる血筋であった。生まれたのはランドルフ伯であった父親の居城、ナポリ王国アクイーノ近郊のロッカセッカ城であると考えられている。伯父のシニバルドはモンテ・カッシーノ修道院の院長をしていたため、やがてトマスもそこで院長として伯父の後を継ぐことが期待されていた。修道院にはいって高位聖職者となることは貴族の子息たちにはありがちなキャリアであった〔稲垣、1999、pp.85-96〕。
こうして5歳にして修道院にあずけられたトマスはそこで学び、ナポリ大学を出ると両親の期待を裏切ってドミニコ会に入会した。ドミニコ会は当時、フランシスコ会と共に中世初期の教会制度への挑戦ともいえる新機軸を打ち出した修道会であり、同時に新進気鋭の会として学会をリードする存在であった。家族はトマスがドミニコ会に入るのを喜ばず、強制的にサン・ジョバンニ城の家族の元に連れ帰り、一年以上そこで軟禁されて翻意を促された。初期の伝記によれば、家族は若い女性を連れてきてトマスを誘惑までさせたが、彼の決心はゆるがなかったという〔稲垣、1999、pp.111-112〕。
ついに家族も折れてドミニコ会に入会を許されるとトマスはケルンに学び、そこで生涯の師とあおいだアルベルトゥス・マグヌスと出会った。おそらく1244年ごろのことである。1245年にはアルベルトゥスと共にパリ大学に赴き、3年同地ですごし、1248年に再び二人でケルンへ戻った。アルベルトゥスの思考法・学問のスタイルはトマスに大きな影響を与え、トマスがアリストテレスの手法を神学に導入するきっかけとなった〔稲垣、1999、pp.113-121〕。トマスは非常に観念的な価値観を持つ人物であり、同時代の人と同じように聖なるものと悪なるものをはっきりと区別するものの見方をしていた。あるとき、自然科学に興味があったアルベルトゥスがトマスに自動機械なるものを示すと、トマスは悪魔的であるとしてこれを批判した。
1252年にパリに赴いて学位を取得しようとしたが、パリ大学の教授会が托鉢修道会に対して難癖をつけてきたため、やっとの思いで学位を取得し、パリ大学神学部教授となった。しかし、明晰なトマスはやがて1257年に教授会に迎え入れられ、そこで教鞭をとった。1259年にはヴァレンシエンヌでおこなわれたドミニコ会総会に代表として出席した〔稲垣、1999、pp.122-163〕。
その後、教皇ウルバヌス4世の願いによってローマで暮らすことになった。
1269年再びパリ大学神学部教授になり、シゲルスを中心とするラテンアヴェロエス派や、ジョン・ペッカムを中心とするアウグスティヌス派と論争を繰り広げる〔稲垣、1999、pp.192-219〕。同時代の人々の記録によるとトマスは非常に太った大柄な人物で、色黒であり頭ははげ気味であったという。しかし所作の端々に育ちのよさが伺われ、非常に親しみやすい人柄であったらしい〔稲垣、1999、p.192〕。議論においても逆上したりすることなく常に冷静で、論争者たちもその人柄にほれこむほどであったようだ。記憶力が卓抜で、いったん研究に没頭するとわれを忘れるほど集中していたという。そしてひとたび彼が話し始めるとその論理のわかりやすさと正確さによって強い印象を与えていた。
1272年フィレンツェの教会会議において、トマスは、ローマ管区内の任意の場所に神学大学を設立するように求められ、温暖な故郷ナポリを選び、著作に専念して思想を集大成に努めるようになった〔稲垣、1999、p.220〕。
1274年の初頭、教皇は第2リヨン公会議への出席を要請した。トマスは健康状態が優れなかったが、これを快諾し、ナポリからリヨンへ向かった。しかし、道中で健康状態を害し、ドミニコ会修道院で最後を迎えたいと願ったが、かなわずソンニーノに近いフォッサノヴァ(現在はプリヴェルノ市の一部)のシトー会修道院で世を去った。1274年3月7日のことであった。シトー会士たちは遺体をドミニコ会側に渡すまいと、棺を修道院内に隠す、頭を切り離す、骨だけにするために遺体を煮込むなどの暴挙をあえて行ったともいわれているが、教皇の命令により1369年になってようやく遺骨がドミニコ会に引き渡された〔稲垣、1999、p234〕。
トマスは会う人すべてに強い印象を与えている。彼はパウロアウグスティヌスと並び立つ人物といわれ、Doctor Angelicus(神の使いのような博士)と呼ばれた。1319年にトマスの列聖調査が始められ、1323年7月18日アヴィニョンの教皇ヨハネス22世によって列聖が宣言され、聖人にあげられている〔稲垣、1999、pp.233-235〕。
1545年トリエント公会議。議場に設けられた祭壇の上には二つの本だけが置かれていた。一つは聖書、そしてもう一つはトマス・アクィナスの『神学大全』であった〔稲垣、1999、p.482〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「トマス・アクィナス」の詳細全文を読む

英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Thomas Aquinas 」があります。




スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.