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===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ ー : [ちょうおん] (n) long vowel mark (usually only used in katakana) ・ ブリザード : [ぶりざーど] (n) blizzard, (n) blizzard
トーシンブリザードとは日本の競走馬である。 == 戦歴 == 2000年9月11日船橋競馬場でデビュー。快勝するが、当時は同じ世代にラムタラの産駒でデビューから2戦圧勝のロイヤルエンデバー(川崎競馬)がいたため決して目立つ存在ではなかった。しかし、2戦目の山茶花特別でロイヤルエンデバーと対戦しこれに勝利する。 3戦目に統一GIIの全日本3歳優駿へ出走したが7番人気という低評価であった。しかし、このレースでもロイヤルエンデバー、マイネルジャパン(函館3歳ステークス優勝馬)、ムガムチュウ(後のダービーグランプリ優勝馬)を下し優勝した。 年が明けて3歳(この年から馬齢の表記が変更)となり、1番人気で南関東三冠の前哨戦京浜盃に出走。大井競馬場では圧倒的不利とも思われる位置取りから、直線で次元の違う末脚を見せロイヤルエンデバーをハナ差かわす。 その評判通り、危なげなく羽田盃、東京王冠賞、東京ダービーの南関東三冠レースを制覇。史上初の「無敗の南関東三冠馬」となる。この後、統一GIジャパンダートダービーをも単勝1.0倍の人気を集め勝利し、四冠馬となった。なお、東京王冠賞は2001年を持って廃止となったため、この路線の四冠馬はトーシンブリザードが最初で最後である。 :なお、ジャパンダートダービー制覇の際「東京の、真夏の夜に、ブリザード圧勝!!」と実況された(実況担当は及川暁である)。 あまりの強さに「アグネスタキオンやジャングルポケットとどちらが強いのか」「ハイセイコーの再来」とまで言われ南関競馬ファンの期待を一身に背負ったトーシンブリザードであるが、ジャパンダートダービー数日後に骨折が判明する。骨折がなければ秋に中央競馬のセントライト記念に挑戦する予定だったが、休養に入ることとなった。 骨折休養後、馬主が和泉栄一に変更され半年のブランクを得て出走したレースは南関東最高峰のレース、統一GIの東京大賞典であった。長期休養明けのみならず、ノボトゥルーやウイングアローなどの中央勢、更にはトーホウエンペラーなどの強力な地方勢など相手が揃い、トーシンブリザードには厳しいレースであったが、この馬に期待を寄せているファンもおり、人気はウイングアローに次ぐ2番人気であった。その人気に応え、トーシンブリザードはトーホウエンペラーとリージェントブラフに続いて3着で入線した。初の敗戦ではあったが、他の実力馬と遜色ない力を見せた。 年が明け、4歳となったトーシンブリザードは中央の統一GIフェブラリーステークスに出走する。初めての中央参戦、更にはアグネスデジタル・ノボトゥルー・トゥザヴィクトリーなどの強豪人気馬揃いという事もあり、4番人気であった。だが、ここでもトーシンブリザードはアグネスデジタルの2着に入った。 この後、久々の地元船橋のレースとなる統一GIIダイオライト記念に出走したが、5着に敗れる。次走の1600m統一GIIかしわ記念で勝利、続く大井最高峰レースである統一GI帝王賞に出走する。1番人気に推されたが、このレースでは8着と惨敗してしまう。その後骨折が判明、1年半の休養を経て復帰するも、蹄も悪くしており、すでにその能力は失われていた。勝てないレースが続くが、引退することなく7歳まで走り続ける。勝利を挙げることはできなかったが、かしわ記念や浦和記念で好走した。 2005年のJBCスプリントを最後に引退。引退レースに騎乗したのはデビュー当初に厩務員として調教を担当していた石崎駿であった。そして、11月23日に船橋競馬場で引退式を行った。その後種牡馬として新冠町の白馬スタリオンステーションにて繋養されていたが、2008年12月に種牡馬を引退、北海道新ひだか町の荒木育成牧場で功労馬として余生を送っている。初年度産駒で2頭が血統登録されている〔トーシンブリザードが種牡馬引退 - netkeiba.com〕。2年目の産駒1頭も含め3頭すべてが和泉栄一の所有で佐藤賢二厩舎に所属、初年度産駒の1頭バトルファイターがJRAとの条件交流戦を勝つなどそこそこの活躍を見せている。 主戦騎手だった石崎隆之は「数多くの名馬に乗せてもらったが、これほど賢い馬はほかにいなかった」と語っている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「トーシンブリザード」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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