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トーマス・ミドルトン : ミニ英和和英辞書
トーマス・ミドルトン[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

トーマス・ミドルトン ( リダイレクト:トマス・ミドルトン ) : ウィキペディア日本語版
トマス・ミドルトン[ちょうおん]

トマス・ミドルトン(Thomas Middleton, 1580年4月18日洗礼 - 1627年)は、ジャコビアン時代イングランド劇作家詩人。当時の劇作家としては、ベン・ジョンソンジョン・フレッチャーと並ぶ成功を収め、また多作だった。喜劇悲劇の両方で成功し、仮面劇やページェントも多数書いた。
==生涯==
ミドルトンはロンドンの生まれ。父親は煉瓦積み職人から一代でジェントルマンに昇進した人物。興味深いことに、ショアディッチShoreditch)の所有地はカーテン座に隣接していた。5歳の時、父親が亡くなって、母親は再婚するのだが、その結婚の解消はミドルトンと妹の相続をめぐって15年間もの法廷闘争にもつれた。ミドルトンが繰り返して描く法律家への風刺は、おそらくその時の経験から生まれたものに違いない。
1598年オックスフォード大学ザ・クイーンズ・カレッジに入学するが卒業はしなかった。しかし、大学を去る前に(1600年か1601年〔Mark Eccles, "Thomas Middleton a Poett', "Studies in Philology" 54 (1957): 516-36 (p. 525)〕)、エリザベス朝時代に人気のあったスタイルの長詩を書き、出版した。とくに成功したようでもなく、またそのうちの1冊(風刺詩)が英国国教会と衝突して発売禁止になってしまった。ともかくも、ミドルトンの文学歴はそこからスタートした。
1600年代のはじめ、ミドルトンは生計を立てるため、時事問題のパンフレットを書いた。その1つ『Penniless Parliament of Threadbare Poets』は何度も刷られ、議会質疑の対象にもなった。フィリップ・ヘンズローPhilip Henslowe)の日記によると、同じ頃、ミドルトンは海軍大臣一座のための戯曲も書いていた。
劇作家として駆け出しだったこの時代、ミドルトンは論争好きで名を知られた。「劇場戦争War of the Theatres)」で、トマス・デッカーとの友情からベン・ジョンソンジョージ・チャップマンと戦ったのだ。ジョンソンとの遺恨は1626年まで続いた。ジョンソンは戯曲『The Staple of News』でミドルトンの大ヒット作『チェスゲーム』をやりたい放題に中傷した。ミドルトンの仮面劇『The Masque of Heroes, or, The Inner Temple Masque』(1619年)はジョンソン(ちょうどスコットランドを旅していた頃)「黙った煉瓦積み職人」と冷笑したと言われている〔Jerzey Limon, "A Silenc'st Bricklayer," ''Notes and Queries'' 41 (1994), p. 512.〕。
1603年に結婚。同年、ペストの流行でロンドンの劇場は閉鎖され、ジェームズ1世がイングランド王に即位した。この時期をミドルトンは散文のパンフレットを書いて過ごした。劇場が再開されると、ミドルトンは劇作家として本格的に活動を始めた。いくつもの劇団のために様々なジャンルの作品(特に都市喜劇復讐悲劇)を量産した。シェイクスピアと違って、ミドルトンは雇ってくれる劇団ならどこにでも書いて良いフリーランスの劇作家だった。
トマス・デッカーとは、同時代の盗賊メアリ・フリスMary Frith)を題材にした『女番長またの名女怪盗モル』などいくつかの合作をした。
1613年、ミドルトンは代表作となる『チープサイドの貞淑な乙女』を書いた。この時期(1610年代)のミドルトンの戯曲にはいくぶん穏やかな気分が見える。以前書いていた『ミクルマス開廷期』のような風刺性を持つ喜劇や、流血場面の多い悲劇がこの時期はないのである。
1620年にはシティ・オブ・ロンドンの年代学者に任命された。この職は亡くなるまで続け、その後はベン・ジョンソンに受け継がれた。しかし、公務についても劇作は続け、ウィリアム・ローリーWilliam Rowley)との合作悲劇『チェンジリング』やいくつかの悲喜劇を書いた。
1624年、風刺喜劇『チェスゲーム 』がグローブ座国王一座によって初演されたが、この作品はミドルトンの悪名をいっきに高める結果になった。チェスを比喩に使って「スペインとの縁組Spanish Match)」(後にチャールズ1世なる皇太子とマリア・アナ・デ・アウストリアとの縁談。しかし結婚にはいたらなかった)にまつわる策略を風刺した作品だったからである。ミドルトンの姿勢は愛国的だったが、スペイン大使の抗議で枢密院は9日目にこの芝居を上演禁止にした。この作品以降、ミドルトンの戯曲の記録がないことから、劇作禁止を含む処罰があったものと推測されている。
1627年、ミドルトンはニューイングトン・バッツNewington Butts)の自宅で亡くなった。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「トマス・ミドルトン」の詳細全文を読む




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