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ドイツ民主共和国の経済 : ミニ英和和英辞書
ドイツ民主共和国の経済[どいつみんしゅきょうわこく]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

ドイツ民主共和国 : [どいつみんしゅきょうわこく]
 (n) German Democratic Republic (i.e. former East Germany)
: [たみ]
 【名詞】 1. nation 2. people 
民主 : [みんしゅ]
 【名詞】 1. democratic 2. the head of the nation 
: [ぬし, おも]
 【名詞】 1. owner 2. master 3. lover 4. god 
: [ども]
  1. (suf) indicates plural - humble referring to oneself, disdainful referring to others 
共和 : [きょうわ]
 【名詞】 1. republicanism 2. cooperation 
共和国 : [きょうわこく]
 【名詞】 1. republic 2. commonwealth 
: [わ]
 【名詞】 1. (1) sum 2. (2) harmony 3. peace 
: [くに]
 【名詞】 1. country 
: [けい, たていと]
 (n) (weaving) warp
経済 : [けいざい]
  1. (n,vs) economics 2. business 3. finance 4. economy 
: [すみ]
 【名詞】 1. arranged 2. taken care of 3. settled

ドイツ民主共和国の経済 : ウィキペディア日本語版
ドイツ民主共和国の経済[どいつみんしゅきょうわこく]
ドイツ民主共和国(ドイツみんしゅきょうわこく、; )、通称東ドイツ(ひがしドイツ、)の経済は、資本主義国の市場経済混合経済とは違って、ソ連と同様、計画経済であった。国家が生産目標と価格を規定し、資源を分配、生産設備はほとんど国営であった。1970年代までは、ソ連経済圏と共産主義世界の中で最も安定した国の一つであった。
== 概要 ==
社会主義国である東ドイツの経済は、ソ連を模範とした計画経済であり、がコントロールした。東ドイツには国営の大企業や協同組合だけでなく、民間の中小企業も存在しており、1972年まではそれほど悪くない業績をあげていた〔Maria Haendcke-Hoppe: ''Privatwirtschaft in der DDR. Geschichte-Struktur-Bedeutung''. In: ''FS-Analysen 1'' (1982)〕〔André Steiner|: ''Re-Kapitalisierung oder Sozialisierung? Die privaten und halbstaatlichen Betriebe in der DDR-Wirtschaftsreform der sechziger Jahre''〕が、1972年に国営化キャンペーンが始まると、民間の経済活動は、肉屋や家具屋のような小規模なものしか残らないようないようになり、従業員数も10人にまで制限された。そのうえ、物資の供給、税や法の面でも不利に扱われ、成功の見込みはあまりないと思われた〔Monika Kaiser: ''1972 – Knockout für den Mittelstand. Zum Wirken von SED, CDU, LDPD und NDPD für die Verstaatlichung der Klein- und Mittelbetriebe'', Berlin 1990.〕。
マルクス・レーニン主義のイデオロギーで東ドイツ経済を組織化するため、1949年に二カ年計画、1951年には第一次五カ年計画が行われた。東ドイツの戦後復興が、西ドイツよりも長引いたのは単に計画経済に依拠していたからだけではない。戦争で痛手を受けたソ連は、東ドイツの占領地域で、大規模な工場解体(''Demontagen'')を行い、賠償(''Reparationen'')と称して資材や製品を持ち去った。また、東ドイツはソ連に掌握されていたので、アメリカの復興支援計画マーシャル・プランの援助を受けることはできなかった〔Hans-Ulrich Wehler: ''Deutsche Gesellschaftsgeschichte.'' Bd. 5: ''Von der Gründung der beiden deutschen Staaten bis zur Vereinigung 1949–1990.'' C.H. Beck, München 2008, S. 91–95.〕。他にも東西ドイツの異なる点として、東ドイツには大きな鉄鉱山や石炭採掘場がなかったため、資源が乏しかったということが挙げられる。東の経済発展が西側と比べてかなり遅れたのもこのためである。1958年まで東ドイツでは食料品は配給制が続いたが、西ドイツではすでに1950年には配給券(Lebensmittelmarke)を必要としなくなっていた。
それにも関わらずヴァルター・ウルブリヒトは、東ドイツ国民一人あたりに「必要なすべての食料品、生活用品」の消費は、「近いうちに西ドイツの全国民の一人あたりの消費を超える」という目標を1958年に定めた〔Zitiert nach Ulrich Mählert: ''Kleine Geschichte der DDR.'' 4. überarbeitete Aufl., München 2004, S. 92.〕。その際、模範となったのは、西側の「ちゃんとしてない(''irgendwelch'')」日用品や「粗悪品(''Schund'')」ではなく、「綺麗でセンスのよい、働く人が喜びとともに買って使う」実用品であった〔''Handelskonferenz der SED Berlin 1959.'' Berlin (Ost) 1959, S. 105; zit. n. Ulrich Mählert: ''Kleine Geschichte der DDR.'' 4. überarbeitete Aufl., München 2004, S. 92.〕。このような競争意識から生じた困難をは次のように総括している。「東ドイツ当局が、怪奇的な統計を使って、自国の労働者に見せつけたのは、自分たちの生活状態が、様々な領域で西側の仲間たちと同等であるということであった」。西側を経済的に追い越すことができるという希望は、長きにわたって資本主義的生産方法の崩壊を予想していたマルクスの教えからはぐくまれていた。スターリンのもとでソ連の経済発展が起こり、当時冷戦の出口はまだ見えていなかった。初期スターリン主義的経済戦略という先例は、重厚長大型工業に注目を集めさせたが、ベルリンにスターリン通りを建設することに対する不満、過酷な労働規範(''Arbeitsnorm'')の反抗として生じた東ベルリン暴動の暴力的な鎮圧も生じた。その後、1950年代半ばから非スターリン化が起こると、経済は国民の需要に直接応える方向に向かっていった。1960年代には西側を経済的に追い越すという期待は実らなくなり、ウルブリヒトは、「追い付かずに追い越す(''Überholen ohne einzuholen'')」という標語を打ち出した。1989年には東ドイツは破綻した経済的状況のなかにあったが、前身を疑うことも、商品を改良することもできる状態ではなかった。東ドイツ国民の平均的な実質賃金水準は、西側の3分の1にも満たなかった〔Hans-Werner Sinn: ''Kaltstart – Volkswirtschaftliche Aspekte der deutschen Vereinigung.'' 2. Aufl., Mohr Siebeck, Tübingen 1992, S. 9.〕。
それでもなお1950年代から60年代のあいだ東ドイツでも明らかに経済成長は起こっていた。消費財の供給は、継続的に改善されている。100世帯あたりの乗用車の供給数は3.2台(1960年)から、15.6台(1970年)に増加。テレビは、18.5台(1960年)から73.6台(1970年)、冷蔵庫は6.1台(1960年)から56.4台(1970年)、洗濯機は6.2台(1960年)から53.6台に増加した〔Informationen zur politischen Bildung Nr. 312/2011, S. 47 (PDF ).〕。大規模な住宅建設計画によって、居住環境も改善された。1970年頃の東ドイツは、東側諸国のなかで最も高い生活水準にあり、1970年代以降、重要な先進国のひとつに数えられるようになった〔この時点で、東ドイツは世界で10番目に大きな産業国と見られたという評価は、現在の研究では適切ではない。参照:Oskar Schwarzer, ''Sozialistische Zentralplanwirtschaft in der SBZ/DDR. Ergebnisse eines ordnungspolitischen Experiments (1945–1989)'', in: ''Vierteljahresschrift für Sozial- und Wirtschaftsgeschichte'', Beiheft 143, Franz Steiner Verlag, Stuttgart 1999, ISBN 3-515-07379-5, S. 9; Eckard Wandel, ''Transformationsprobleme bei der deutschen Wiedervereinigung, in Struktur und Dimension'', Franz Steiner Verlag, Stuttgart 1997, ISBN 978-3-515-07066-9, S. 311; Mathias Schlegel, ''20 Jahre Mauerfall. Die Bankrotterklärung. Im Herbst 1989 ist die DDR auch wirtschaftlich am Ende – Planungschef Schürer legt dem SED-Politbüro ungeschminkte Fakten vor'' , in: ''Der Tagesspiegel'' vom 30. Oktober 2009, 「世界で10番目に強い産業国であるという東ドイツのウソは、ドイツでも世界でも多くの人に信じこまれている」〕。冷戦中だったため、西側の状況は国家にとっても国民にとっても指標であったが、東ドイツは西ドイツの経済成長の速度に、端から追いついておらず、このことは国民を怒らせた。
外国で経済競争力を拡大しようと大胆な試みを行ったが、そのため1970年以降、国内の供給力が大きく低下した〔Uwe Hoßfeld, Tobias Kaiser und Heinz Mestrup (Hrsg.): ''Hochschule im Sozialismus, Studien zur Geschichte der Friedrich-Schiller-Universität Jena (1945–1990)'', Band 1. Unter Mitarb. von Horst Neuper, Böhlau, Köln/Weimar/Wien 2007, ISBN 978-3-412-34505-1, S. 380 .〕。1971年エーリッヒ・ホーネッカーが指導者になり、というスローガンのもとで、国家への不満を解消するために莫大な助成金を宣伝し、国際競争力を高めることよりも、国民の消費需要を満たすことに最大限の注意を払った。その結果、事実上1970年以降の物不足は解消し、新しい政策路線は肯定的に評価された。なお前任者のウルブリヒトは、ホーネッカーの経済戦略を批判し、「青くて未熟な共産主義者」と罵倒した〔Hans Halter: ''Erster Tischler seines Staates''. In: Der Spiegel. Nr. 12, 2001, S. 66–68 (19. März 2001, ).〕。急激に高まる消費を賄うために、ホーネッカーはにおける設備投資額の割合を縮減した。設備投資に対する資本蓄積の割合は、1970年には16.1%だったのが、1988年には9.9%にまで減少している〔Gerhard Schürer, Gerhard Beil, Alexander Schalck, Ernst Höfner, Arno Donda: ''Analyse der ökonomischen Lage der DDR mit Schlußfolgerungen, Vorlage für das Politbüro des Zentralkomitees der SED''. 30. Oktober 1989; SAPMO-BA, DY 30/J IV 2/2A/3252 (online ; abgerufen am 30. Januar 2010). 〕。このことは、最終的に東ドイツの経済停滞を招いた破滅的な決定ミスであったと証明されている〔Informationen zur politischen Bildung Nr. 312/2011, S. 49.〕。
他の産業部門への設備投資はひどく放置された一方〔参照:Klaus Krakat: ''Probleme der DDR-Industrie im letzten Fünfjahrplanzeitraum (1986–1989/90)''. In: Eberhard Kuhrt (Hrsg.): ''Am Ende des realen Sozialismus''. Im Auftrag des Bundesministeriums des Innern. 1. Auflage. 2, Leske + Budrich, Opladen 1996, ISBN 978-3-8100-1609-6, S. 137–172. 〕、マイクロエレクトロニクス技術のような一大プロジェクトには投資が集中した。「自給自足のマイクロエレクトロニクス産業を構築する以外の選択肢は東ドイツにはなかった。先進的な産業国グループのなかで首位を堅持することが望まれていたのである」〔Gerhard Barkleit: Mikroelektronik in der DDR. SED, Staatsapparat und Staatssicherheit im Wettstreit der Systeme. Hannah-Arendt-Institut für Totalitarismusforschung, Dresden 2000, ISBN 3-931648-32-X, S. 32 ff. (PDF ).〕。SEDは、電子部品・コンピュータ産業を発達させる際、リバースエンジニアリング戦略、つまりシュタージによる諜報活動を広範囲に投入して技術不足を解決しようとした。「この戦略では、世界の主要な製造国になるための遅れを取り戻すことは出来なかったが、その差を縮めることはできた。しかし最終的には、競合相手の製品をコピーする技術だけでは、急激な発展には対応できなかった」〔。
商品の供給は、相変わらず不満足な水準にとどまっていた。技術のイノベーションや道徳意識の変化(例えばその頃から出現した環境意識)は考慮されなかった。硬直した経済は、国民を不安定にしただけでなく、80年代にはいわゆるが裏付けたように、SED自身でさえ不安定にした〔。ホーネッカーが輸出能力を疎かにしたので、輸入額はもはや輸出額を大きく上回った。極秘扱いのシューラー・ペーパーで負債額が見積もられたが、その際、それが秘密行動であるという理由から、東ドイツがもつ外国貿易資産は顧慮されず、その結果実際にあった負債額よりもかなりの大きな額が想定されることとなった〔Deutsche Bundesbank: ''Die Zahlungsbilanz der ehemaligen DDR von 1975 bis 1989'' . S. 58, abgerufen am 19. November 2012. 〕。このことは、シューラー自身も後の出版で証明している.〔Gerhard Schürer: ''Planung und Lenkung der Volkswirtschaft in der DDR''. In: Eberhard Kuhrt (Hrsg.): ''Am Ende des realen Sozialismus''. Im Auftrag des Bundesministeriums des Innern. 1. Auflage. Bd.4, Leske + Budrich, Opladen 1999, ISBN 978-3-8100-2744-3, S. 74.〕。非社会主義経済圏に対する実質の対外債務は、199億ドイツマルクである〔Deutsche Bundesbank: ''Die Zahlungsbilanz der ehemaligen DDR von 1975 bis 1989'' . S. 59, abgerufen am 19. November 2012.〕。外貨流動資産は、1989年には国際決済銀行ドイツ連邦銀行の支払い後にも、事実上は残っていた
〔Armin Volze: ''Zur Devisenverschuldung der DDR – Entstehung, Bewältigung und Folgen''. In: Eberhard Kuhrt (Hrsg.): ''Am Ende des realen Sozialismus''. Im Auftrag des Bundesministeriums des Innern. 1. Auflage. Bd. 4, Leske + Budrich, Opladen 1999, ISBN 978-3-8100-2744-3, S. 164.〕。社会主義経済圏に対して東ドイツは1989年、60億ドイツマルクの純資産を持っていた〔Deutsche Bundesbank: ''Die Zahlungsbilanz der ehemaligen DDR von 1975 bis 1989'' . S. 36, abgerufen am 19. November 2012. 〕。さらに東ドイツ国家予算に対する国営企業の債務も加わっている。SED指導部は、1982年に流動資産が危機的な状態になったあとで、差し迫る支払能力を危惧していた。この危機的状態は、1983年にが西ドイツのフランツ・ヨーゼフ・シュトラウスと交渉して決着した数十億マルクの借款によって克服されたものであり、西側銀行の信用を再び取り戻したのである。その後、「採算性よりも外貨(''Liquididät geht vor Rentablität'')」というモットーに従って、東ドイツの支払能力は確保された。東ドイツの体制崩壊が、支払能力の危機によって引き起こされたかどうかは、研究上では議論を呼ぶところである。によれば、SED体制の最期は、「財政破綻する少し前」に生じた〔Stefan Wolle: ''Die heile Welt der Diktatur. Alltag und Herrschaft in der DDR 1971–1989.'' Econ&List, München 1999, S. 202.〕が、このことは歴史家のアーミン・ヴォルツェ(''Armin Volze'')との議論を呼んでいる〔Armin Volze: ''Zur Devisenverschuldung der DDR – Entstehung, Bewältigung und Folgen''. In: Eberhard Kuhrt (Hrsg.): ''Am Ende des realen Sozialismus''. Im Auftrag des Bundesministeriums des Innern. 1. Auflage. Bd. 4, Leske + Budrich, Opladen 1999, ISBN 978-3-8100-2744-3, S. 151.〕。
東ドイツ国内では、工業化された南部と農業が主流だった北部という歴史的に生じた格差があった。国土設計政策は、この格差を解消するため、莫大な費用を使って、社のコンビナートや、の石油コンビナートの建設を北側で進めた。さらにも強化され、バルト海海岸にはたくさんの造船所も建造された。ノイブランデンブルクロストックシュヴェリーンのような北部の都市は新しく拡張されると、南部の古い産業地域の住民が北部に移転した。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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