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ドゥアンチャイ・ピチット : ミニ英和和英辞書
ドゥアンチャイ・ピチット
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。


ドゥアンチャイ・ピチット : ウィキペディア日本語版
ドゥアンチャイ・ピチット

ドゥアンチャイ・ピチット( / Douangchay Phichit, 1946年4月5日 - 2014年5月17日)はラオス軍人政治家ラオス人民軍副総参謀長、国防大臣、副首相を歴任。ラオス人民革命党政治局員。最終階級は中将。
== 経歴 ==
ドゥアンチャイは1946年、ラオス南部のアッタプー県サイセーター郡に生まれた〔Stuart-Fox(2008), p.83.〕〔山田(2015年)、306ページ。〕。ベトナムの軍事アカデミーに派遣され、内戦末期にラオス人民解放軍に参加〔。人民民主共和国の建国後も軍に留まり、1982年にはソビエト連邦の軍事アカデミーでも訓練を受けた〔。
国防省参謀本部部長、国防副大臣を歴任〔NEW CENTRAL COMMITTEE LINEUP , 2006 March 31〕。1991年3月の第5回人民革命党大会において党中央委員に選出され、党内序列第53位となる〔山田(2002年)、128ページ・表4。〕。翌1992年には副総参謀長に任命〔。
1996年年3月の第6回党大会においては、人民軍准将の階級で党中央委員に再選出され、序列22位へ昇格した〔山田(2002年)、131ページ・表5。〕。
2001年3月の第7回党大会においては、人民軍少将の階級で党中央委員および党政治局員に選出され、序列第10位に昇格〔山田(2002年)、123ページ表1、139ページ・表6。〕。同年3月27日、第4期第7回国会において新たにブンニャン・ウォーラチット内閣が成立すると、チュンマリー・サイニャソーン中将に代わって国防大臣に就任した〔〔山田(2002年)、143ページ・表7。〕。チュンマリーとドゥアンチャイはサイセーター郡の同郷であり、チュンマリーが引退後も影響力を行使するための人事であったと見られる〔。
2006年3月の第8回党大会において党政治局員に再選出され第9位となり〔山田(2007年)、261ページ。〕、大会後は中将に昇格した〔。同年6月の第6期第1回国会においてブアソーン・ブッパーヴァン副首相が首相に昇格すると、それに伴い副首相の兼務となった〔〔山田(2007年)、261ページ。〕。
2014年5月17日、ドゥアンチャイはジャール平原における対王党派軍戦勝55周年式典に出席するため、首都ヴィエンチャンから空路でシエンクワーン県ポンサワンに向かった〔。しかし、搭乗したアントノフAN-74TK-300が同県西部に墜落〔「【ラオス】軍用機墜落で副首相ら閣僚含む14名が死亡 」『GLOBAL NEWS ASIA』 2014年5月18日〕
〔搭載機はAN-74TK-300Dとも伝えられている。〕。この事故ではドゥアンチャイや他の党・政府要人を含む15名が死亡し、2名が生存した〔山田(2015年)、304ページ。〕。
後任には、5月末にセンヌアン・サイニャラート副大臣が国防大臣代行に任ぜられ、7月の国会で国防大臣として正式承認された〔山田(2015年)、307ページ。〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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