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ドゥラ・エウロポス : ミニ英和和英辞書
ドゥラ・エウロポス
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。


ドゥラ・エウロポス : ウィキペディア日本語版
ドゥラ・エウロポス

ドゥラ・エウロポスDura-Europos、「エウロポスの砦」)は、ヘレニズム時代からパルティアおよびローマ帝国の支配下の時代にかけて繁栄した古代都市。その遺跡は現在のシリア東部、イラクとの国境付近にあり、ユーフラテス川右岸(南岸)の高い断崖上の平地に位置する。
ドゥラ・エウロポスはセレウコス朝が築き、後にパルティアに征服され大きな町となった。116年トラヤヌス帝の遠征でローマ帝国に編入され、一時はパルティアが奪還したが、164年ルキウス・ウェルスの遠征で再度ローマ領となった。2世紀後半から3世紀にかけてはローマの東部国境の軍事拠点としてきわめて重要な植民都市になった。しかし3世紀前半にサーサーン朝によってパルティアが倒れローマを圧迫するようになり、257年にはシャープール1世の遠征で陥落し、以後廃墟のまま放棄された。
20世紀前半にドゥラ・エウロポスの発掘が始まり、考古学的に重要な発見が次々になされた。256年から257年にかけてのサーサーン朝による征服で放棄されて以降、ドゥラ・エウロポスには建物などが建てられることはなかったため、後世の住居や要塞建築などが残り、他のローマ都市のような、古代都市の上に新たな施設等が建設され、古代の都市計画を分かりにくくするという事柄が起こらず、このためローマの植民都市の姿を知る上で貴重な遺跡となった。また帝国の辺縁にあるという立地のため、ギリシア、ローマ、パルミラ、シリア、ペルシア、オリエントなど異なった文化がこの町には共存しており、その遺物も遺跡から多く見つかった。様々な文化に由来する神々に捧げられた神殿ユダヤ人が建てたシナゴーグ、ローマの軍事植民都市によく見られるミトラ教神殿、壁飾り、碑銘、軍の装備、墓所、そしてドゥラ・エウロポスが滅ぼされた攻囲戦の痕跡などもこの遺跡からは発見されている。
== 地形 ==

都市遺跡はユーフラテス川から切り立った崖の上にあり、ユーフラテスの流れを見下ろすことができる。崖の上の平らな土地が都市になっているが、その北と南に深い谷(ワジ)がユーフラテス川に向って落ち込んでいるため、都市の広がりの限界になっているとともに都市を守る天然の濠となっている。西はシリア砂漠に向けて平地が続いている。町の中にもいくつかの谷やワジがユーフラテス川沿いの崖へ向かって走っており、市街地とアクロポリスおよび城塞を分ける境界線になっている。ユーフラテス沿いの地方は豊かな農地が続いているが、ドゥラ・エウロポスのある崖の上は砂漠地帯である。
市街地は、ユーフラテスの崖に沿うように南東から北西へ走る通りと、平地から崖に向かう南西から北東へ向けて走る通りが直行しており、碁盤目状の街並みを形成している。町の東側は、ワジがいくつかあり起伏もあるため直行する街路が途切れており、断崖とユーフラテスを背にした堅固な要塞などが並ぶ。町の西側は繁華な地区で、これらはすべて城壁で囲まれている。東・北・南は崖に囲まれた地形であるため、サーサーン朝による最後の攻撃は砂漠に開けた西側から行われている。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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