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ドゥルパド(ヒンディー語: ध्रुपद)はヒンドゥスターニー音楽の歌唱の一種であり、この音楽の中で最古で現役と言われている。〔Dhrupad.info 〕ドゥルパドは「ドゥルヴァ(繰り返し)」と「パダ(韻文)」から来ている。〔"The Hindi word ''dhrupad'' (Urdu: ''dhurpad'') from Sanskrit ''dhruva-pada'', denotes a short poem for singing (''pada'') part of which functions as a refrain (''dhruva'')." 〕この言葉は詩の手法と歌い方の両方を表現している。〔Dhrupad SPIC MACAY〕アクバル皇帝の廷臣・年代記編者のアブル・ファズルは、著書のアイン・エ・アクバリでドゥルパドを「4本の韻それぞれが不明瞭な拍子を刻む」と定義した。主題は宗教的・精神的なもの(主にヒンドゥーの神々を讃える)から王室賛辞、音楽理論、恋愛に及ぶ。ドゥルパドは基本的に歌唱伝統を持つが、その音楽的美しさは多くの楽器奏者に取り入れられている。様々なルドラ・ヴィーナの学校(ビーンカーズ)だけでなく、他の楽器奏者も利用している。例えばラーガの楽器演奏の向上や、様式に従う事まである。この様式は、遅く、無拍子のアラプやジョー、ジャラが1つ以上の相反する楽曲のタラでまとめられる。有名な楽器演奏家であるラム・ナラヤンとハリプラサドゥ・チャウラシアはドゥルパドに敬意を示してラーガを演奏した。 ==歴史== サーマ・ヴェーダに寺で歌われていたと記録がある。音楽の種類である「ドゥルパド」に最も早く触れた文献は1593年のアイン・イ・アクバリのアブ・ファズルである。後のマーン・シング・トーマラ(1486~1516年にグワーリヤルを統治)の宮廷音楽家が多くの貢献をした。ムガル帝国ではドゥラパドは比較的新しい音楽とされている。サニャルによると、殆どの資料がドゥルパドをマーン・シング・トーマラの王朝由来としている。ブハラトゥの「ナトゥヤ・シャストラ」にはドゥラパドの記述は無い。一般的に1世紀のものとされており、13世紀の文書であるサンギタ・ラトゥナカラでは権威があるとされている。ラヴィ・シャンカル〔Ravi Shankar, ''Raga Mala'', Welcome Rain Pub., 1999, p.319〕はドゥルパドの様式は「プレバンドゥハ」に置き換わる形で15世紀に定着したと述べている。ムガル帝国では宮廷音楽とされた。 しかしながらドゥルパドの音楽背景は長い歴史を持っていると考えられており、ヴェーダまで遡れる。1294年に書かれたニムバーカ・サムプラダヤのシュリ・シュリブハッタの「ユガラ・シャタカ」は同様の形式の歌詞を含んでいる。タンセンの師匠のスワミ・ハリダスはニムバーカ・サムプラダヤでもドゥルパド歌手として知られている。 18世紀になるとドゥルパドは衰退し始めた。何世紀もドゥルパドと共存して来たクヒャルが所謂ニバッドゥハへの反発運動として盛り上がった為だ。また、未編曲の音楽がドゥルパドの人気を奪い、名人芸があまり見られないドゥルパドを圧倒し始めた。また、シタールやサロードといった新しい楽器が作られたが、これらはドゥルパドの遅い曲調に合わなかった。 1960年にはフランスの民族音楽学者のアライン・ダニエロウがナシー・モイヌッディンとナシー・アミヌッディン・ダガー(ダガー兄弟)〔http://www.dagar.org〕〔http://www.dagarvani.org〕をヨーロッパでの演奏に招いた。演奏会は成功し、ナシー・モイヌッディンの1966年の夭逝の後も、彼の弟のナシー・ザヒルッディンとナシー・ファヤズッディンが演奏を続けた。ダガー兄弟は多くの場所で演奏会を行い、また録音した。外国からのインド音楽への興味の高まりに合わせて、ダガーヴァニの復活は数少ないドゥルパド歌手に新たな息吹を与えた。今日では、ドゥルパドは広く人気を集める種類ではないものの、尊敬を集める立場にあり消滅の瀬戸際からは脱した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ドゥルパド」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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