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髑髏杯(どくろはい)は、ヒトの頭蓋骨を材料として製作された盃である。 ==中央ユーラシア== 紀元前8世紀~紀元前3世紀にかけて現在のウクライナに割拠した遊牧民族スキタイの習俗に「頭蓋骨は近親者か最も憎い敵に限り、髑髏を眉の下で切り牛の生皮を貼って杯として用いる」〔ヘロドトス『歴史』〕とあり、これが最も古い髑髏杯の記録だと思われる。 大プリニウスは『博物誌』に、ドニエプル川の北方部族が髑髏杯を用いる事や、夜間に泉から汲んだ水を髑髏に入れて患者に飲ませるというてんかんの治療法を記している。 イッセドネス人は親の葬儀で喜びを表し、集まって祝祭を催す。そして故人の遺体を引き裂いて家畜の胎児の挽き肉と混ぜ合わせ、宴に来た人々にふるまい、食べつくす。頭蓋骨は磨き上げて黄金を巻き、杯に使う。これらの行為はイッセドネス人における最大の親孝行であるという。〔ポンポニウス・メラ『世界地理』《飯尾 1999,p513》〕 紀元前2世紀、モンゴル高原に割拠した遊牧国家匈奴の老上単于は、隣国(敦煌付近)である月氏の王を討ち取り、その頭蓋骨を盃にした。以後、この髑髏杯は代々受け継がれ大事な時に使用された。〔『漢書』「匈奴伝」、『史記』「張騫列伝」〕 516年、高車王の弥俄突(在位:508年 - 516年)は柔然可汗の醜奴(在位:508年 - 520年)と戦い敗北した。醜奴はその両脚を駑馬の上に繋いでこれを殺し、その頭蓋骨に漆を塗って盃とした。〔『魏書』、『北史』〕 567年、ランゴバルド王国のアルボイーノ王はパンノニアのゲピド族を虐殺し、ゲピド王の頭蓋骨で杯を作って祝った。またクニムンドの娘()を妻としてその髑髏杯を与えた。 811年、プリスカの戦いで戦死した東ローマ帝国皇帝ニケフォロス1世は、その頭蓋骨を髑髏杯にされて第一次ブルガリア帝国の皇帝クルムに献上された。 971年、キエフ大公のスヴャトスラフ1世(在位:945年 - 972年)はブルガリアに侵攻して大打撃をあたえ、その地に居座ろうとした。しかし、これを脅威と感じた東ローマ帝国はキエフ・ルーシを追い払うべく、ペチェネグを使ってキエフ・ルーシ軍を壊滅させ、スヴァトスラフ1世を戦死させた。この時ペチェネグはスヴァトスラフ1世の頭蓋骨を盃にした〔ロシア古代中世史 彼らはスヴャトスラーフの頭蓋骨から金箔の酒杯をつくって戦勝を祝ったという。〕。 1510年、サファヴィー朝のシャー・イスマーイール(在位:1501年 - 1524年)はシャイバーニー朝のムハンマド・シャイバーニー・ハーン(在位:1500年 - 1510年)を討ち取り、その頭蓋骨に金箔を塗って盃にした。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「髑髏杯」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Skull cup 」があります。 スポンサード リンク
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