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トッド・リン・ヘルトン(Todd Lynn Helton, 1973年8月20日 - )は、アメリカ合衆国テネシー州ノックスビル出身の元野球選手。一塁手、左投左打。からまでMLBコロラド・ロッキーズに所属した。 リーグを代表する強打者で、現代のMLBでは数少ないフランチャイズ・プレイヤーのひとり。シーズン終了時点で、通算打率(4,000打数以上)は現役選手中3位となる.320を記録している。さらにからまで8シーズン連続で打率.315以上を記録しており、これを達成しているのは一塁手としてはルー・ゲーリック、ビル・テリーとヘルトンの3人のみである。 == 経歴 == 5歳のとき、ミネソタ・ツインズのマイナーリーグに所属していたことのある父がガレージに洗濯機のホースを利用したティーを作り、練習をさせていた。、ノックス・セントラル高校3年生の時に打率.655(78打数51安打)を記録し、有力野球雑誌ベースボール・アメリカ誌による高校全米選抜に選出される。卒業後、ドラフト2巡目でサンディエゴ・パドレスから指名を受けるが、アメリカンフットボール(クォーターバック)と野球の両方で推薦を受け、テネシー大学に進学。だがフットボールでは、大学在学中に後にNFLでスター選手となるペイトン・マニングの加入によってベンチに追いやられ、結果として野球に専念するようになる。 にロッキーズに1巡目(全体5位)指名されて入団。A級アッシュビルからプロとしてのキャリアをスタートする。同年の冬にはハワイ・ウィンターリーグに参加し、マウイ・スティングレイズで松井稼頭央などとチームメートとなる。はAA級ニューヘブンで開幕を迎える。7月にAAA級へ昇格し、所属したイースタン・リーグでは守備が評価されるものの、この年は最後までマイナーで過ごした。シーズン後はアリゾナ・フォールリーグに参加し、ピオリア・ジェイブリナスでプレイした。 はAAA級でシーズンを迎えたが、8月までに打率が.352に達するなど突出した成績を収めていたためにメジャーから招集がかけられる。昇格した翌日の8月2日のパイレーツ戦でメジャーデビュー。守備は本来の位置とは違う左翼についたが(この年は本来の一塁のほか左翼に13回、右翼に1回守備についている)、打撃では4打数2安打、本塁打も1本放ち、打点1も記録した。この翌日の試合でも本塁打を放つ。1年目は35試合に出場し、打率.280・5本塁打・11打点という成績だった。 当時ロッキーズのスター選手だったアンドレス・ガララーガがブレーブスに移籍するのに伴い、からスタメンに定着。打撃3部門でメジャー新人選手1位となる打率.315・25本塁打・97打点を記録した。新人王争いこそケリー・ウッド(カブス)に次ぐ2位で終わるものの、チームメートはヘルトンを「ロッキーズを代表する選手」に選出した。ルーキーが選ばれるのは極めて異例である。 3月2日に4年契約を結び開幕を迎えた。打率は.320を超え、本塁打も1998年に比べて10本増。打点も100の大台を突破し、チームの主砲となった。6月19日のマーリンズ戦ではサイクル安打を達成している。 は首位打者と打点王の2冠に輝いたほか、過去64年間で最多となるシーズン59二塁打を放ち、安打・二塁打・塁打・出塁率・長打率・OPSはすべてリーグ1位の成績を残した。シーズンで最も素晴らしい活躍をしたとされる打者に贈られるハンク・アーロン賞も受賞し、MLBオールスターゲームやシルバースラッガー賞にも選出された。この年、一瞬だけ「503打席以上で4割を超える打率」つまり規定打席を満たしての4割打者になった。それは、8月18日のマーリンズ戦で6回裏、この日の3本目の安打となる2塁打を放ったヘルトンの打率は、一旦4割を超えた。当時はメジャーのスコアボードで事細かに選手の打撃成績を表示していなかったため、規定打席を満たして4割に到達したことに誰も気がつかず、3点ビハインドを追いかける次の打席にも登場したヘルトンは1塁ゴロに倒れ、結局、この試合の.399を最後に二度と4割に近づくことは無く.372でシーズンを終えた。このとき、打率4割の状態でベンチに下がり、残り試合を欠場していたらテッド・ウィリアムズ以来の打率4割を達成していたことになる。 翌4月に2003年から9年総額1億4150万ドルで契約延長した。この年は打率が.036も低下したが、それでも.336という高打率を記録し、最終的にはリーグ2位となった。本塁打は昨年の自己ベストを更新する49本塁打を記録した。長打数は105で2年連続で100長打を達成した。100長打を2回達成した選手はルー・ゲーリッグ、チャック・クラインがいるが、2年連続はメジャー史上初めての快挙となった。更に守備力も評価を高めるようになり、自身初のゴールドグラブ賞にも輝いた。 は前年から比べると成績全般が大きく低下。それでも打率.329・30本塁打・109打点という成績を記録している。さらに2年連続となるゴールドグラブ賞も獲得した。しかし、このシーズン中から痛めていた背中に、診察の結果、遊離骨が見つかる〔http://colorado.rockies.mlb.com/news/article.jsp?ymd=20070129&content_id=1789306&vkey=news_col&fext=.jsp&c_id=col〕。手術は回避したものの、この年から慢性的な背中の痛みに悩まされ続ける事になる。 は月間打率が3割を下回ることなくシーズンを終えたが、首位打者争いでアルバート・プホルスが打率.35871でタイトルを獲得し、ヘルトンの打率は.35849でリーグ2位におわった。前年以上の本塁打と打点も記録した。オールスターには4年連続で出場。シルバースラッガー賞にも2000年から4年連続で選出された。 はバリー・ボンズが首位打者のタイトルを獲得し、2年連続で打率がリーグ2位に終わった。本塁打は30本の大台に乗せたが、得点圏にランナーがいるときの打数は127で四球が55と勝負を避けられ〔、打点は6年ぶりに100を下回った。その恩恵でヘルトンの後を打つビニー・カスティーヤは打点王となった。守備では高く評価され、2002年以来となるゴールドグラブ賞に輝いている。 明けに今まで背中の痛みを抱えながらプレイしていたことを公表した。7月26日から8月9日にかけて自身初の故障者リスト入りした。開幕から打率が低迷したが、7月下旬に打率.300を記録し、最終的には.320という成績を残している。しかし、20本塁打・79打点はメジャー定着後ワーストの成績となった。 は15試合を終えた時点で.347・1本塁打と上々の滑り出しであったが、4月に腸の感染症にかかり入院した。欠場自体は15試合だけだったがその後も腹痛は続き、シーズン終了時の打率と本塁打はレギュラー定着以来自己最悪の数字になった。この影響もあり、シーズンにはボストン・レッドソックスとの間でトレードが交渉されたが、結果的にこれは決裂し、ロッキーズにとどまる事になった〔。 は打率.320・17本塁打・91打点と打撃3部門で前年を上回る成績を記録。二塁打では史上初めて10年連続で35二塁打を達成した〔http://www.denverpost.com/rockies/ci_6847420〕。チームはワイルドカードでポストシーズンへ進出し、リーグ優勝した。ヘルトンはプレーオフ初出場を果たした。 腰の椎間板の手術をに受けたが、は月間打率が3割下回ることなくシーズンを終えた〔。5月19日の対ブレーブス戦にてメジャー通算255人目の2000本安打を達成した。3月11日に球団と2011年の年俸1910万ドルのうち1300万ドルを2014年以降に10年間分割で支払うことに合意し、2012年は2,300万ドルのオプション(違約金460万ドル)だったが、それに代わり、契約金1,070万ドルと2013年までの2年990万ドルの契約に合意した。 その2010年だったが、2008年に続いて不振に陥り、出場試合数自体は2008年よりも35試合多い118試合であり、8本塁打・37打点という数字はいずれも2008年を上回るものではあったが、打率は2008年よりも低い.256に終わった。更に、規定打席には到達していないながら、8年ぶりに90以上の三振を喫するなど、打撃面で精彩を欠いた。 2013年9月14日に同年限りで引退する意志を表明。ファンの前で感謝の手紙を読み現役生活に別れを告げた。2014年8月17日に彼の背番号17はロッキーズの選手として初〔MLB全体の永久欠番42(ジャッキー・ロビンソン)や2010年に死去した球団社長ケリー・マクレガー(欠番扱い)が先に指定されているが、ロッキーズ所属の選手・コーチとして背番号が永久欠番となるのはヘルトンが初となる。〕の永久欠番に指定された。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「トッド・ヘルトン」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Todd Helton 」があります。 スポンサード リンク
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