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ドデカネス諸島の戦い(ドデカネスしょとうのたたかい)は、イタリア降伏後の1943年9月にイギリス軍を中心とする連合国軍が、エーゲ海にあるイタリア領のドデカネス諸島を攻略し、そこをドイツ占領下にあるバルカン半島に対する反攻の拠点として使用しようとしたことで開始された戦いである。この連合国軍の作戦は失敗に終わり、ドデカネス諸島全体が2ヶ月以内にドイツ軍の手に落ちた。そして、連合国軍は人員や艦船に大きな被害を受けた。1943年9月8日から11月22日まで続いたこの戦いは、戦争中最後の、大きなドイツ軍の勝利であった。 == 背景 == ドデカネス諸島はエーゲ海の南東部に浮かぶ島々で、伊土戦争以降イタリア領となっていた。イタリア統治下で、戦略的に重要な位置にあるこれらの島は、地中海東部におけるイタリアの領土的野心の中心となった。諸島で最大の島、ロードス島(ロドス島)は、主要な陸軍及び航空部隊の基地となった。良港を持つレロス島は、強固に要塞化された航空基地になり、ムッソリーニは「地中海のコレヒドール」と豪語した。 1941年4月にギリシャが陥落し、5月には連合国はクレタ島を失ったことで、ギリシャ本土と多くの島々はドイツ軍とイタリア軍の占領下に置かれた。最終的に1942年10月に枢軸国が北アフリカでの戦いで敗北すると、この地域に興味を持っていたウィンストン・チャーチルは、ドデカネス諸島に視野を向けた。イギリスはドデカネス諸島とクレタ島攻略作戦を考えた。そして、それは枢軸国から地中海の優れた前線基地を奪うだけではなく、中立国トルコの参戦への圧力を与えるものでもあった。カサブランカ会談において最初の行動許可は得られ、1943年1月27日にチャーチルは計画策定を命じた。 アコレイド作戦 (Operation Accolade) というコードネームがつけられた計画は、3個歩兵師団、1個装甲旅団とその支援部隊によるロードス島及びカルパトス島への直接攻撃であった。強固に防備され、強力なドイツ軍のいるロードス島への上陸は、取りやめになった。計画者が直面した大きな問題は、航空戦力の不足によりドイツ空軍への対抗が困難である、ということであった。さらに、シチリア島への上陸作戦が迫っていたことで、実行はより難しくなった。アメリカはこの作戦に懐疑的であり、この作戦がイギリスの戦後の利益を目的としたものだとみなしており、また、イタリアへの侵攻にとっても不必要な陽動であると考えていた。そうして、アメリカは支援を拒否した。 イタリア降伏の可能性が高まると、1943年8月にイギリスはその好機を利用するため、アコレイド作戦をスケールダウンした作戦の準備を開始した。第8歩兵師団を中心とした部隊が集結を開始し、アメリカにP-38による支援が要請された。しかしながら、ケベック会談でアメリカはイギリスの計画に同意せず、作戦のため集結していた戦力は他の戦線に送られた。それは9月8日のイタリアの降伏の、わずか1週間前のことであった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ドデカネス諸島の戦い」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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