翻訳と辞書
Words near each other
・ ドボン&ウズ・メメス
・ ドマゴイ・ヴィダ
・ ドマジョフ・オスタジック
・ ドマジリツェ - プラナー・ウ・マリアーンスキーフ・ラーズニー線
・ ドマス・ツェセヴィチュス
・ ドマニK1200
・ ドマニャーノ
・ ドマリ語
・ ドマルセ
・ ドマンタス・サボニス
ドマーギン・ソドノム
・ ドマーゾ
・ ドマーニ
・ ドマーニコ
・ ドマーリー語
・ ドマ語
・ ドミ
・ ドミエヴィル
・ ドミカツ丼
・ ドミグラス


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

ドマーギン・ソドノム : ミニ英和和英辞書
ドマーギン・ソドノム[ちょうおん]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

ドマーギン・ソドノム ( リダイレクト:ドゥマーギーン・ソドノム ) : ウィキペディア日本語版
ドゥマーギーン・ソドノム[ちょうおん]

ドゥマーギーン・ソドノムドゥマーギイン・ソドノムドマーギン・ソドノム、、ラテン文字転写の例:、1933年7月14日 - )は、モンゴル人民共和国政治家1984年から1990年まで、モンゴル人民共和国閣僚会議議長(首相)を務めた〔アラン・J.K.サンダース、『モンゴル歴史辞典』1996年、ISBN 0-8108-3077-9.〕。
== 経歴・人物 ==
1933年7月14日ドルノゴビ県ウルゲンに生まれる。1942年東モンゴルのヘンティー県バヤンムンフ郡に移り、小学校に入学する。1946年に、ウランバートルに上京し、当初、芸術関係の学校に進学する予定であったが、叔父が学んでいた財政・経済専門学校(テクニカルカレッジ)予科に入学する。1950年「国家付き会計士」の資格を取得し財政・経済専門学校を卒業した。卒業後、大蔵省に採用され、監査局監査官として4年間勤務した。また、大蔵省勤務中に10年制第2学校夜間部で学び1953年に卒業した。1954年にはモンゴル人民革命党に入党した。1954年ソ連に留学し、イルクーツク財政・経済高級学校(イルクーツク財務学院)で経済学を学び、1958年7月にヴェーラ夫人と結婚。同年8月に同校を修了した〔アラン・J.K.サンダース、『モンゴル歴史辞典』1996年、ISBN 0-8108-3077-9.〕。
帰国後、大蔵省に復職し、通貨課長を経て、1963年30歳の若さで蔵相に任命される。1969年国家計画委員会第一副議長を経て、1972年同委員会議長。1974年閣僚会議議長(副首相)に就任する〔アラン・J.K.サンダース、『モンゴル歴史辞典』1996年、ISBN 0-8108-3077-9.〕。
1984年12月12日、閣僚会議議長(首相)に就任する。この年にユムジャーギーン・ツェデンバルが失脚し、ソドノムの盟友でもあったジャムビィン・バトムンフが政権を握ると、ソドノムは人民革命党政治局員にもなり、名実共にバトムンフに次ぐナンバー2になった。ソドノムはバトムンフと共に体制内改革に着手するが、1989年から1990年にかけて行われたモンゴル民主化運動により、1990年3月21日、首相と党政治局員を辞任した〔アラン・J.K.サンダース、『モンゴル歴史辞典』1996年、ISBN 0-8108-3077-9.〕。
首相辞任後は、1990年から2001年まで、カザルィン・トス石油会社の取締役を務めた〔  なお、このサイトによると石油公団総裁となっている。〕。また、その間、1992年には、ポンツァギーン・ジャスライ首相の顧問を務めた〔アラン・J.K.サンダース、『モンゴル歴史辞典』1996年、ISBN 0-8108-3077-9.〕。
日本との関係では、首相時代の1990年3月にモンゴル首脳としてはじめて来日している〔 〕。その後も日本・モンゴル関係促進協会会長を務めている。2005年には、日蒙友好親善関係に尽くした功労で旭日大綬章を受章している〔 〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「ドゥマーギーン・ソドノム」の詳細全文を読む

英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Dumaagiin Sodnom 」があります。




スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.