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===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ ー : [ちょうおん] (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
桜田 一男(さくらだ かずお、1948年9月26日 - )は、日本の元大相撲力士、プロレスラー。本名(戸籍上の表記)は櫻田 一男(読みは同じ)。北海道網走市出身。ケンドー・ナガサキのリングネームで知られる。 == 来歴 == 父は網走刑務所の職員だった。中学卒業後、大相撲の立浪部屋に入門し、『網走洋』の四股名を名乗るが、先輩力士とのトラブルに端を発し、部屋の親方と反りが合わなくなり廃業。その後、1971年に日本プロレスに入門し、同年6月27日、戸口正徳戦にてデビューした。 日本プロレスには1973年の崩壊まで残り、その後、全日本プロレスに移籍(正式には1976年3月31日までは、日本テレビと3年契約を結んだ上、全日本へ派遣されていた。同年4月1日付で全日本正式所属選手となる)。1976年10月、ジャイアント馬場から「お前、髷が結えるか?」〔当時天龍はまだ廃業から日が浅く髷が残っていたため。天龍は父の意向で1か月後に力士の立場で妹の結婚式に参加しなければならなかったため髷はそれまで落とすことができなかった。〕と聞かれて「結えますよ」と答えたことで天龍源一郎のアメリカ武者修行に帯同し渡米するが、渡米後は天龍と別行動を取り、『ミスター・サクラダ』のリングネームでアメリカをはじめカナダやプエルトリコなど北米各地を日本人ヒールとして転戦。 アメリカ中南部のNWAトライステート地区(後のMSWA)ではキラー・カール・コックスのパートナーに起用され、トップ戦線で活躍〔『Gスピリッツ Vol.15』P94-97(2010年、辰巳出版、ISBN 477780772X)〕。カナダのカルガリーではミスター・ヒトとのタッグで活動し、アンドレ・ザ・ジャイアントとも対戦したほか、1978年7月8日にはエドモントンでハーリー・レイスのNWA世界ヘビー級王座に挑戦した〔。同年10月に一時帰国し、カルガリーと提携していた国際プロレスの『日本リーグ争覇戦』に出場。決勝トーナメントでプロフェッサー・タナカに敗れるも敢闘賞を受賞した〔。 以降もヒトとのコンビで各地を転戦し、1979年はカルガリーにて2月10日にブレット・ハート&キース・ハート、7月7日にドリー・ファンク・ジュニア&ラリー・レーンを破り、同地区認定のインターナショナル・タッグ王座を獲得。8月25日にはフロリダにて、スティーブ・カーン&ジム・ガービンを下しNWAフロリダ・タッグ王座も手中に収めた。テキサス州のダラスにも進出し、1980年1月から7月にかけて、ホセ・ロザリオ&エル・ハルコン、ケビン・フォン・エリック&ケリー・フォン・エリックなどのチームからNWAアメリカン・タッグ王座を奪取している。 ヒトとのタッグ解消後は、ダラスにて『チャン・チュン』なる覆面レスラーに変身し、シンガポール出身と称してザ・グレート・カブキと合体。1981年にケビン&デビッド・フォン・エリックを破り、テキサス版のNWA世界タッグ王座を獲得した。1982年の全日本プロレス帰国時もチャン・チュンと同じマスクを被り、覆面レスラーの『ドリーム・マシーン』として外国人サイドの一員となって参戦した〔。 その後、再渡米した際、古巣のフロリダでペイントレスラーの『ケンドー・ナガサキ』に変身し、頭頂部を剃り上げた落武者スタイルの怪奇派ヒールとしてダスティ・ローデスやビリー・ジャックと抗争。1984年1月22日にはマイク・ロトンドからNWAフロリダ・ヘビー級王座を奪取している。1985年に全日本プロレスを退団し、ノースカロライナのNWAミッドアトランティック地区で後藤達俊と覆面タッグチーム『ライジング・サンズ』を結成。同年10月に新日本プロレスに参戦、リングネームを『ランボー・サクラダ』に改め、素顔で試合を行い、ブルーザー・ブロディともシングルマッチを行った。 しかし、この改名が不評であったため、同年末には再びペイントを施して『ケンドー・ナガサキ』に戻り、ミスター・ポーゴをパートナーにIWGPタッグリーグ戦に出場。以降はポーゴとのオリエンタル系ペイント・タッグチームで活躍、カルロス・コロンの主宰するプエルトリコのWWCにも遠征し、1987年10月から1988年7月にかけて、マーク&クリスのヤングブラッド兄弟とWWC世界タッグ王座を争った。 以後、再び渡米してWCWで活動、日本のヤクザをイメージしたキャラクターの『ドラゴンマスター』に改名し、グレート・ムタやテリー・ファンクらとユニットを組んでフォー・ホースメンと抗争する。その後帰国し、旗揚げ間もないFMWに参戦、栗栖正伸とタッグを組み、大仁田厚&ターザン後藤とストリートファイトマッチで対戦するが、FMWには1シリーズのみの参戦となり、1990年に将軍KYワカマツと共にSWS設立の中心人物として活動。SWS旗揚げの際には再びケンドー・ナガサキのリングネームに戻し、『道場・檄』の実質的なリーダーとして活躍した。 SWS崩壊後は、『道場・檄』のメンバーとジョージ高野&高野俊二の所属していたパライストラとの合同でNOWを旗揚げするが、正式な旗揚げ戦の前に高野兄弟が離脱し、NOWのエースとなるものの、経営不振のために崩壊した。 その後、1995年にグレート小鹿に誘われ大日本プロレスに参加し、デスマッチ路線で活躍するが、小鹿の意向でバーリトゥード挑戦を表明、当時「セメントマッチならナガサキが最強」と言われていたため、その強さを期待され、ジェラルド・ゴルドーの兄であるニコ・ゴルドーと対戦、年齢的な問題もあり苦戦したものの勝利を収めた。 そして、同年9月26日、47歳の誕生日であるこの日にシューティング(現:修斗)が主催した総合格闘技大会「Vale-Tudo Perception」に参戦し、キックボクシング出身のジーン・フレージャーと対戦し、試合開始後わずか36秒で失神KO負けとなり、以後バーリトゥード路線から撤退することとなる(この試合に関しては、事前に対戦相手のことも調べず、バーリトゥード向けのトレーニングも行っていなかった)。 その後、小鹿との相違もあり大日本プロレスを離脱。フリーランスとしてSPWFやIWA・JAPANに参戦、自主興行も開催するが、その一方で神奈川県小田原市にちゃんこ料理店とスナックを開店、さらには魚料理のケータリングサービスや魚の仲買を行なう会社を設立し、料理店の食材仕入れはキラー・カーンの店と共同で行っていた。そのため2000年代にはこちらの経営が主となっており、プロレスのリングにはたまに上がる程度になっていた。その後の2009年には、過労による体調不良もあってか、全てを廃業。2013年現在は千葉市在住。〔〕 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「桜田一男」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Kazuo Sakurada 」があります。 スポンサード リンク
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