翻訳と辞書
Words near each other
・ ドロゴブージ公国 (ドロホブージ)
・ ドロシア・ベイト
・ ドロシア・ラング
・ ドロシー
・ ドロシーリトルハッピー
・ ドロシーリトルハッピーのジャンプ!
・ ドロシー・L・セイヤーズ
・ ドロシー・アリソン
・ ドロシー・アリソン (作家)
・ ドロシー・ウォーカー・ブッシュ
ドロシー・オズボーン
・ ドロシー・オルブライト
・ ドロシー・オーダム
・ ドロシー・カタロニア
・ ドロシー・ギッシュ
・ ドロシー・ギブソン
・ ドロシー・ギャロッド
・ ドロシー・ギルマン
・ ドロシー・クラーク
・ ドロシー・グリーンハウ=スミス


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

ドロシー・オズボーン : ミニ英和和英辞書
ドロシー・オズボーン[ちょうおん]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

ドロシー・オズボーン : ウィキペディア日本語版
ドロシー・オズボーン[ちょうおん]

ドロシー・オズボーン(Dorothy Osborne, 1627年 - 1695年)は、17世紀イングランドの女性で、外交官ウィリアム・テンプルの妻。エッセイストでもあった。
王党派でガーンジー島の総督であったサー・ピーター・オズボーンとドロシー・ダンバーズ夫妻の娘で、10人兄弟の末子として生まれた。従兄弟のトマス・オズボーンオリバー・クロムウェルの4男ヘンリー・クロムウェルが求婚してきたが、1648年にウィリアム・テンプルと出会い、交際を始めた。互いの家族は反対したが、ドロシーの父ピーターが死去、兄ヘンリーも了承し、1654年12月25日に結婚した。
ウィリアムが駐ハーグ大使に任命されるとドロシーもハーグに滞在した。1671年にウィリアムがイングランド王チャールズ2世の命令で召還されるとドロシーもイングランド艦隊へ乗船、帰国したが、後にオランダ総督ウィレム3世(後のウィリアム3世)とチャールズ2世の姪メアリー(後のメアリー2世)との結婚をウィリアムと共に協力、メアリー2世との交流は1694年にメアリー2世が亡くなるまで続いた。
ウィリアムとの間に9人の子供を儲けたが、7人は夭折、娘ダイアナは天然痘にかかって14歳で死去、息子ジョンも自殺、孫のエリザベス、ドロシーが残された。1695年、サリー州ムア・パーク(ウィリアムが造り上げた庭園)でウィリアムに先立って死去、遺体はウェストミンスター寺院の西側通路でウィリアム、義妹マーサ、娘ダイアナと共に埋葬された。
1652年から1654年にかけてウィリアムへ送った77通の手紙は後に編集、書簡集の見本とされた。
== 参考文献 ==

*『女性にとっての職業』(ヴァージニア・ウルフ著、出淵敬子川本静子監訳、みすず書房、1994年)



抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「ドロシー・オズボーン」の詳細全文を読む




スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.