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ドワイト・エバンス : ウィキペディア日本語版
ドワイト・エバンス

ドワイト・マイケル・エヴァンスDwight Michael Evans, 1951年11月3日 - )は、MLBの元選手。ポジションは外野手アメリカ合衆国カリフォルニア州サンタモニカ出身。ニックネームは「Dewey」。
== 人物・来歴 ==
ボストン・レッドソックスに入団。マイナーでのプレイを経て終盤にメジャー昇格し、同年9月16日インディアンス戦でメジャーデビュー。この試合ではルイス・ティアントが3安打完封し、10-0で勝ったが、二塁打を打ったレジー・スミス(のち巨人)の代走として起用され、そのままライトの守備位置についた。翌に119試合に出場。打率.223、本塁打10、打点32に終わったが、チームはスミスをカージナルスに放出し、エバンスを正右翼手として起用。には133試合に出場し、以後、故障で73試合の出場に留まったを除いて右翼手として活躍。
特に守備力に優れ、右翼が広い本拠地フェンウェイ・パークで鉄壁の守備と強肩を誇り、通算8度ゴールドグラブ賞を受賞した。1970年代後半にはジム・ライスフレッド・リンとともにメジャー最強クラスの外野陣を誇った。1980年代にリン移籍後は中堅手トニー・アーマスに代わったが、それもメジャー最強クラスの外野陣であった。
には初のオールスター出場を果たし、以後3回出場。50日間に及ぶストライキでシーズンが短縮されたには22本塁打を放ち、アメリカンリーグ本塁打王に輝いた。同年シルバースラッガー賞も受賞。選球眼にも優れ、同年(85四球)と(114四球)、(106四球)の3回、四球がリーグ1位であった。の出塁率.402、の121得点もリーグ1位であった。1984年7月28日にはサイクルヒットを記録。4月7日の開幕戦(デトロイトタイガー・スタジアムで行われたタイガース戦)では、一番打者として起用され、ジャック・モリスの初球を見事にホームラン。この試合は慣行(こちら参照)を破って他の球場に先駆けて行われ、その年メジャーの全ての試合の初球をホームランしたこととなった。史上初で、現時点でも唯一の記録。(ちなみに、それまでの記録は1982年バンプ・ウィリス(当時カブス、翌年より阪急ブレーブスでプレイ)の2球目であった。ただし、「その年のメジャーで一番早く行われた開幕戦」でなければ、2004年松井稼頭央(当時メッツ)のように他にも例がある。)また、それを含めて開幕戦で通算4本塁打を記録している。
35歳となった途中に、ビル・バックナーが移籍して以後は一塁手としての起用が増えたが、この年の打率.305、本塁打34本、打点123はいずれも自己最高であった。その後もまでは3年連続で100打点をマークしたが、になると急激に衰え、その年限りでボルチモア・オリオールズに移籍。1シーズンだけプレイしたが、101試合の出場でわずか6本塁打、38打点に終わり、この年限りで現役を引退した。
「The Man of Thousand Stances」と言われたぐらい打撃スタンスをよく変えた打者であった。現役時代の背番号は「24」。レッドソックスでは他にトム・ブラナンスキーケビン・ミッチェルマイク・スタンリーマニー・ラミレス斎藤隆らが着けていた。にレッドソックスでコーチを務めた際には前出ラミレスが「24」をつけていたため、「25」をつけた。また、息子ティモシーが難病にかかったため、1980年代よりスーザン夫人とともに、その病気を研究するニューイングランドの財団に多額の寄付を行っている。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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