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ドナルド・アーサー・シュルジー(Donald Arthur "Don" Schulze , 1962年9月27日 - )は、アメリカ合衆国イリノイ州出身の元プロ野球選手(投手)。 日本プロ野球での通算打率10割・通算長打率40割という、稀有の記録を有する選手である。この記録は、長い日本プロ野球の歴史の中で、彼と塩瀬盛道(東急)の2例しかない〔但し、通算1安打で1本塁打という記録は竹村元雄(広島)もしている〔竹村の場合は8試合11打数を記録している〕。〕。 == 来歴・人物 == のMLBドラフト1巡目(全体の11番目)でシカゴ・カブスに指名され契約。、メジャー初昇格。 翌6月に3対3のトレードでクリーブランド・インディアンスに移籍(交換相手にメル・ホールがいる)。その後はニューヨーク・メッツ、ニューヨーク・ヤンキースと渡り歩き、7月にマイク・パグリアルーロと共にサンディエゴ・パドレスに移籍。実働6年間で、先発を中心に通算76試合に登板し15勝25敗、防御率5.47をマーク。 、オリックス・ブレーブスに入団。当時、ブーマー・ウェルズとガイ・ホフマンが在籍していたため第3の外国人扱いだったが、ブーマーの故障で一軍に昇格した。140km/h台後半の重いストレートを投げることから主にリリーフで20試合に登板し、6勝4敗3セーブ、防御率2.58とまずまずの成績を残す。翌もホフマンの不振により一軍に定着するものの、成績は24試合登板で3勝2敗7セーブ、防御率4.66と平凡だった。 日本でのキャリアのハイライトと言えるのが1991年5月29日に日生球場で行われた対近鉄バファローズ戦。先発した当時新人の長谷川滋利の後を受けて登板したシュルジーだったがリリーフに失敗し、長谷川のプロ初勝利を消してしまい試合は延長戦へ突入した。そして指名打者の飯塚富司〔指名打者として先発したのは石嶺和彦で、飯塚が代走として代わって指名打者になった。しかし、飯塚が守備に就いたため、公認野球規則6.10(b)の規定により指名打者が消滅し、投手のシュルジーが打席に立たなければならなくなった。〕が一塁守備に就いていたため11回表にシュルジーに打席が回ると、赤堀元之の初球を左翼スタンド後方の照明塔を直撃する超特大ソロ・来日初打席初本塁打を放ち、球場は騒然となった。そのままシュルジーはその裏を抑えて勝利投手になった。これによりパ・リーグで指名打者制を導入して以降、初めての投手による本塁打が記録された。その上シュルジーの日本での打席はこれ1回きりであったため、日本プロ野球での通算打率が10割、長打率40割という塩瀬盛道(1950年)以来の珍しい記録も誕生した〔雑誌「週刊ベースボール」(ベースボールマガジン社刊)2008年6月30日号70-73ページ「記録の手帳」〕。しかし本人は日本でのその記録にあまり関心が無く、日本での思い出は「1年目のキャンプで体調を崩して入院した際に井箟重慶球団代表から送られた梨が神様からの贈り物のようにおいしかったこと」と語っている〔「ホームランを知りつくす」(B.B.mook―スポーツ伝説シリーズ (169)) 、ベースボール・マガジン社、(2001年)143頁〕。 翌は13試合の登板にとどまり、同年限りで退団。引退後、からマイナーリーグの球団で投手コーチを務めている。2011年現在はオークランド・アスレチックスの2Aの投手コーチを務めている〔ベースボールマガジン、2011年9月号 P87〕。 なお、メジャーリーグでの打撃成績は7打数0安打、マイナーリーグでの打撃成績は22打数1安打1本塁打である。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ドン・シュルジー」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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