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===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ ー : [ちょうおん] (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
ドミニク・デヌーチ(Dominic DeNucci、1936年〔『全日本プロレス 来日外国人選手 PERFECTカタログ』P51(2002年、日本スポーツ出版社)〕1月23日 - )は、イタリア・ヴェネト州ヴェネツィア出身の元プロレスラー。生年は1931年ともされる〔。 ベビーフェイスのパワーファイターとして、イタリア系移民の多いニューヨークのWWWF圏を中心に活躍した。日本では、ドン・デヌーチまたはドン・デヌッツィ(Don DeNucci)のリングネームで知られる。 == 来歴 == 1955年にイタリアからカナダのモントリオールに移住し、同地区のスター選手だったトニー・ランザのトレーニングを受けてデビュー。1960年代初頭はドミニク・ブラボーと名乗り、初代ディノ・ブラボーとの "The Bravo Brothers" で活動した。 その後、リングネームを本名のドミニク・デヌーチに戻してシングルプレイヤーとなり、アメリカ合衆国のNWA圏に進出。1964年1月25日にはサンフランシスコにてレイ・スティーブンスからUSヘビー級王座を奪取した。同年下期からはオーストラリア(ジム・バーネットが主宰していたワールド・チャンピオンシップ・レスリング)にも遠征、11月7日にキラー・コワルスキーを破り、豪州版のIWA世界ヘビー級王座を獲得している。 カナダでの活動も続け、1966年12月26日にはバンクーバーにてドン・レオ・ジョナサンと組み、ダッチ・サベージ&ドン・ジャーディンからNWA世界タッグ王座を奪取。翌1967年からはWWWFに登場、バロン・シクルナ、ブル・ラモス、ケンタッキー・ブッチャー、ルーク・グラハム、プロフェッサー・タナカ、ブルドッグ・ブラワー、ルー・アルバーノなどのヒール勢と対戦した〔。 以降、1960年代後半から1970年代初頭にかけてはオーストラリアとWWWFを股にかけて活躍。オーストラリアではマーク・ルーインらをパートナーに、ラリー・ヘニング&ハーリー・レイス、スカル・マーフィー&キラー・カール・コックス、キラー・コワルスキー&ビル・ミラーなどの強力チームを破り、IWA世界タッグ王座を再三獲得。1970年1月7日にはキング・イヤウケアに勝利し、IWA世界ヘビー級王座への通算4回目の戴冠を果たした〔。WWWFでは1971年6月18日、同郷の大スターであるブルーノ・サンマルチノとのコンビでザ・モンゴルズ(ジート&ベポ)からインターナショナル・タッグ王座を奪取している。 1971年下期からはNWFに参戦し、12月8日にワルドー・フォン・エリックを下してNWF世界ヘビー級王座を獲得。NWFではオーストラリアでもタッグを組んでいたトニー・パリシ(アントニオ・プリエーゼ)とイタリア人コンビを結成、NWF離脱後もパリシとのタッグチームで活動し、フロリダでは1974年12月28日、トール・タナカ&ディック・スレーターからNWAフロリダ・タッグ王座を奪取した。 1975年よりWWWFに復帰し、5月13日にビクター・リベラとのコンビでジミーとジョニーのバリアント・ブラザーズからWWWF世界タッグ王座を奪取。リベラのWWWF離脱後はアイリッシュ・パット・バレットを新パートナーに防衛戦を行ったが、同年8月26日、ザ・ブラックジャックス(ブラックジャック・マリガン&ブラックジャック・ランザ)にタイトルを奪われた。 王座陥落後もWWWFを主戦場に、1977年6月10日にはペンシルベニア州ピッツバーグにてスーパースター・ビリー・グラハムのWWWF世界ヘビー級王座に挑戦した。1978年はディック・ザ・ブルーザーが主宰していたインディアナポリスのWWAにも出場し、3月4日にウイルバー・スナイダーと組んでバリアント・ブラザーズからWWA世界タッグ王座を奪取。10日後の3月14日には2代目のディノ・ブラボーをパートナーに、トール・タナカ&ミスター・フジを破ってWWWF世界タッグ王座に再び戴冠〔〔、WWAとWWWFの両世界タッグ王座の2冠王となった。 1980年代初頭もWWFへの出場を続け、ケン・パテラ、ボビー・ダンカン、スタン・ハンセン、ハルク・ホーガン、サージェント・スローター、ザ・ハングマン、アンジェロ・モスカ、キラー・カーン、ジェシー・ベンチュラ、アドリアン・アドニスらヒール勢のジョバーを担当。1983年にWWFを離れてからは、ビンス・マクマホン・ジュニアの全米侵攻の対抗組織としてAWAのバーン・ガニアやNWAのジム・クロケット・ジュニアらが結成した "Pro Wrestling USA" のニューヨーク近郊での興行に単発出場していた。 現役引退後はニューヨーク・タイムズの運転手となって働く一方、ピッツバーグのレスリング・スクールにて後進の指導・育成に携わり、ミック・フォーリーやシェーン・ダグラスを指導した。近年も東部地区のインディー団体やリユニオン・イベントに出場しており、2005年8月27日の "WrestleReunion 2" ではイワン・コロフ、2007年3月24日の "IWC Night of Legends 3" ではラリー・ズビスコなど、往年のライバルとの対戦も実現している〔。2012年4月14日にはトロントのPWSにて弟子のシェーン・ダグラスとタッグを組んだ〔。 日本には1968年4月、ドン・デヌーチのリングネームで日本プロレスに初来日、『第10回ワールドリーグ戦』に「イタリア代表」として出場した。3度目の来日となる1972年10月には、全日本プロレスの旗揚げシリーズに盟友ブルーノ・サンマルチノと共に参戦している。以降もサンマルチノの縁故で1981年10月まで通算5回全日本プロレスに来日したが、日本では真価を発揮することはできなかった〔『16文が行く (新装版) 』P170-172(1999年、ダイナミックセラーズ出版、ISBN 488493279X)〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ドミニク・デヌーチ」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Dominic DeNucci 」があります。 スポンサード リンク
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