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ナイファンチ
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ナイファンチ ナイファンチもしくはナイハンチは、空手の型(形)の一つ。「形はナイファンチに始まり、ナイファンチに終わる」〔儀間真謹・藤原稜三『対談・近代空手道を語る』100頁。〕(屋部憲通)と言われるように、古くから空手修行者が最初に習う基本型である。とりわけ首里手、泊手の系統では、この型をもっとも重視してきた。またこの型の立ち方をナイファンチ立ちとして騎馬立ちと区別する流派もある。 == 概要 ==
古来よりナイファンチは首里および泊地域の空手修行者が、最初に習う基本の型とされてきた。首里手の大家・糸洲安恒に師事した知花朝信が「吾々(われわれ)の先生はナイハンチを基本として教へました」〔「本社主催・空手座談会(五)」『琉球新報』1936年(昭和11年)11月。〕と述べていることからも、この事実は確認できる。糸洲が学生用にピンアンを創作(明治37年、1904年)して以降、ピンアンがナイファンチに取って代わったと誤解されることもあるが、実際は、ピンアン創作後も、糸洲は沖縄県師範学校ではナイファンチしか教えていなかったとされる。 師範学校在学時代に、糸洲とその師範代の屋部憲通に師事した儀間真謹(松濤館流)は、「私が師範在学中の五年間に本当に練習したのはナイファンチだけだったのです。体育の時間でも、教練の時間でも、空手大会でも、毎年秋に開かれた大運動会でも演武したのはすべてナイファンチだったのです」〔儀間真謹「空手の“空”は“無”」『空手道 保存版』株式会社創造、1977年、107頁。〕と語っている。また、儀間によれば、屋部はピンアンを練習するくらいなら、公相君を練習しなさいと述べたという〔儀間真謹、藤原稜三『対談・近代空手道の歴史を語る』86頁。 〕。糸洲、屋部、儀間とも、ナイファンチを得意とした。糸洲は、ナイファンチ立ちそのままの足幅で歩いていたとまで言われている。 一般にナイファンチは鍛錬型と見なされることも多いが、同じく糸洲門下の本部朝基は「ナイファンチの形を左右、いずれかに捻ったものが実戦の足立で、ナイファンチの形は左右、いずれかに捻って考えた場合、いちいちの動作に含まれるいろいろな意味が判ってくる」(本部朝基語録)と語り、ナイファンチを単に鍛錬型と位置づけず、実戦型としても重視している。本部朝基はナイファンチしか知らないと揶揄されるほど、この型を得意としていたのは有名である。また、本部からナイファンチを教わった大塚博紀は、「昔時はひとおとり操作ができるようになるには3年を要し、一生かかっても完全にできないといわれていたほどむずかしいとされている形である」と解説している〔大塚博紀『空手道 第一巻』157頁。〕。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ナイファンチ」の詳細全文を読む
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