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thumb ナイマン(、Naiman)は、モンゴル帝国成立以前の時代にモンゴル高原西北部のイルティシュ川低地地域から上流地域、アルタイ山脈に掛けて割拠していたテュルク遊牧民の部族集団。漢字表記は『元史』『元朝秘史』では乃蠻。『集史』などのペルシア語表記では نايمان Nāyimān として現れる。西はジュンガル盆地の沙漠地域を挟んで天山ウイグル王国と隣接し、北は小アルタイ山脈をもってケム・ケムジュート地方およびキルギズと、東ではカラコルム山脈をもってケレイトと隣接していた〔佐口透 1989、p8〕。 == 歴史 == ===ナルクシュとイナンチャ=== 『集史』「ナイマン部族誌」によると、チンギス・カンの勃興以前に、ナイマン王国ではその王位を兄のナルクシュ・タヤン・カンと弟のイナンチャ・カン(イナンチュ・ビルゲ・ブク・カン)とで争っていた。兄のナルクシュは一時「タヤン・カン(大王可汗)」としてナイマン王国を支配したが、彼の死後、弟のイナンチャはナルクシュの子カジル・カンの勢力を倒してナイマン王国を統一した。〔村上正二 1972、p38〕 また、同「ナイマン部族誌」によればナイマン部族を統べる君主のことを自ら「クシュルク・ハン」または「ブユルク・ハン」と呼んでいたという。「クシュルク・ハン(Kūshlūk Khān)」とは「力強く偉大なる君主(pādshāh-i qawī wa `aẓīm)」という意味で、「ブユルク・ハン(Būyurūq Khān)」とは「命令を与える者(farmān dihanda」の意味であるという。 ナイマンは東にケレイト王国と隣接していたため、ケレイト王国の内紛に幾度か関わっている。イナンチュ・カンの時代、ケレイト王国ではトオリル・カン(後のオン・カン)が即位したが、親族たちを粛正したためトオリルの叔父グル・カンはナイマン王国のイナンチュのもとに亡命した。グル・カンはナイマンの軍事的援助によってトオリルを撃退してケレイト王位を襲い、トオリルは逆に東のモンゴル部族の有力王族イェスゲイ・バアトルのもとに亡命する事となった。トオリルはイェスゲイとアンダの契りを交わしその援助によって、グル・カンを打ち破って西夏に敗走させ、再びケレイト王位に復帰した。しかし、トオリルは復位すると弟たちなどを粛正し始めたため、ナイマン王国のもとに亡命したトオリルの弟の一人エルケ・カラがナイマンの支援を受けて再びトオリルを追放し、トオリルは西夏やウイグル、カラ・キタイ(西遼)など各地を放浪する事になった。やがてイェスゲイの息子テムジン(のちのチンギス・カン)が強大になったことを聞いて再びイェスゲイとの縁故を頼ってモンゴル部族のテムジン陣営もとに亡命して来た、と『聖武親征録』『集史』『元史』『元朝秘史』などで一致して伝えている〔例えば、『元史』巻1 太祖本紀「初、汪罕之父忽兒札胡思盃祿既卒、汪罕嗣位、多殺戮昆弟。其叔父菊兒〔罕〕帥兵與汪罕戰、逼於哈剌溫隘敗之、僅以百餘騎脫走、奔于烈祖。烈祖親將兵逐菊兒〔罕〕走西夏、復奪部眾歸汪罕。汪罕德之、遂相與盟、稱為按答。按答、華言交物之友也。 烈祖崩、汪罕之弟也力可哈剌、怨汪罕多殺之故、復叛歸乃蠻部。乃蠻部長亦難赤為發兵伐汪罕、盡奪其部眾與之。汪罕走河西、回鶻、回回三國、奔契丹。既而復叛歸、中道糧絕、捋羊乳為飲、刺橐駝血為食、困乏之甚。帝以其與烈祖交好、遣近侍往招之。帝親迎撫勞、安置軍中振給之。遂會于土兀剌河上、尊汪罕為父。」 〕。〔佐口 1968,p44-45〕 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ナイマン」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Naimans 」があります。 スポンサード リンク
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