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ナサニエル・セイヴァリー : ウィキペディア日本語版
ナサニエル・セイヴァリー[ちょうおん]

ナサニエル・セイヴァリー(Nathaniel Savory、1794年 - 1874年)は、初めて小笠原諸島移民したとされるアメリカ人。日本領有時に父島に居住していた欧米系島民の一人。小笠原出身ではないが、日本の先住民の一人と表現可能である。ナサニエル・セボリーとも。
== 人物・来歴 ==
アメリカのマサチューセッツに生まれ、ハワイに移住したが、天保元年(1830年)、イタリア出身のイギリス人〔「幕末の小笠原」 田中弘之 ISBN 4121013883〕マテオ・マザロを長とし英米人5人とハワイ島先住民十数名をひきい、小笠原諸島父島扇浦に移民した。のちに2人のイギリス人のうちマザロは死亡しもう1人は島を去ると、事実上島に点住する島民のまとめ役となる〔。
嘉永6年(1853年)5月、アメリカのマシュー・ペリー提督は日本来航の途中同島に寄港し、植民政府樹立計画をたて、セイヴァリーを移民の頭目に選んだ。
文久元年(1861年)12月、江戸幕府の外国奉行水野忠徳や小笠原島開拓御用の小花作助らが江戸幕府の命により同島の巡検および開拓使として上陸してきたとき、イギリスジョージ・ホートンとともに島民代表として水野らの意を受け、同島が日本領であることの再確認と、江戸幕府の定めた開拓規則を守ることを約束した。のち本土で生麦事件がこじれイギリスと戦いが懸念されると、文久3年(1863年)小笠原諸島の日本人住民全員に避難命令が出された〔。セイヴァリーらは島に留まり、島民に製糖製塩の技術などを教えていた。
明治8年(1875年)、日本政府は明治丸を父島に送った。到着した明治丸に招かれ日本人と再会したナサニエル・セイヴァリーの息子ホレース(Horace)は、前年の明治7年(1874年)4月に父親が亡くなったことを告げる。ナサニエルは現在の父島奥村にあった自宅の庭に埋葬されたが、後に大根山墓地に改葬された〔。
明治15年(1882年)、息子ホレースは一家そろって日本に帰化した。後に、セイヴァリー家は「瀬堀」と改姓した。
作家有吉佐和子1980年(昭和55年)7月に父島を訪れた際、ナサニエル・セイヴァリーの曾孫にあたるジュリー・セイヴァリー(当時65歳)を取材しており、父島へ移民した欧米系島民が日本に帰化した際、セイヴァリー家は姓を元にした瀬堀と改姓したのに対し、ポルトガル系のゴンザレス家は岸、アメリカ系のワシントン家は太平、ウェッブ家は上部、ギリー家は南などの姓に改姓した事や、太平洋戦争中、小笠原島民は本土へ送還され、終戦後もアメリカ統治のため帰島は許されなかったが、欧米系島民135名は日本に帰化済みであったにも関わらず、GHQにより1946年(昭和21年)に小笠原諸島への帰島が許可された事が語られている〔「うえっぶ」一家が「上部」になったのは姓に由来している。〕〔『日本の島々、昔と今』有吉佐和子著、集英社、遙か太平洋上に 274-280ページ 1981年4月15日初版発行 ISBN 978-4-08-750736-2〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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