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ナタリー・クリフォード・バーネイ : ミニ英和和英辞書
ナタリー・クリフォード・バーネイ[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

ナタリー・クリフォード・バーネイ : ウィキペディア日本語版
ナタリー・クリフォード・バーネイ[ちょうおん]

ナタリー・クリフォード・バーネイ(Natalie Clifford Barney, 1876年10月31日 - 1972年2月2日)は、アメリカ合衆国オハイオ州生まれのフランスの作家。レズビアンであることを公言し、生涯にわたって女性遍歴を重ねたことで有名。父からイングランドの、母からオランダドイツの血を引いている。
バーネイのサロンは、60年間超のあいだパリの左岸で開かれ、世界中から作家や芸術家を集めたが、そのなかには、失われた世代のアメリカやイギリスモダニストに加えて、フランス文学の多くの中心人物も含まれていた。
彼女は、女性による執筆を推進するために働いたし、全員が男性であるアカデミー・フランセーズに対抗してアカデミー・デ・ファム(Académie des Femmes、「女性アカデミー」)を結成し、その一方でレミ・ド・グールモンからトルーマン・カポーティに至る男性作家に支援と霊感を与えた。〔Schenkar, 161–181.〕
彼女は公然たる女性同性愛者であったし、醜聞を「厄介【若い男性からの異性愛的な注目を意味する】払いをする最上の方法」と考えて、早くも1900年に実名で女性への愛の詩を刊行し始めた。
彼女は、著作の中で女権拡張男女同権主義平和主義を支持した。
彼女は、単婚制には反対し、互いに重なり合う長期間短期間のさまざまの多くの関係をもったが、そのなかには詩人ルネ・ヴィヴィアン(Renée Vivien)や舞踊家アルメン・オハニアン(Armen Ohanian)との断続的なロマンス、画家ロメイン・ブルックス(Romaine Brooks)との50年間にわたる関係も含まれていた。
彼女の人生と恋愛事件は、多くの小説にとって霊感がわりになったが、その範囲はわいせつなフランスのベストセラーである『サッポーの田園詩』(''Sapphic Idyll'')から、20世紀の最も有名な女性同性愛の小説である『The Well of Loneliness』に及ぶ。〔Barney's roles in ''Sapphic Idyll'' and ''The Well of Loneliness'' are discussed in Rodriguez, 94–95 and 273–275; regarding the fame of ''The Well'', see Lockard.〕
==前半生==

バーネイは、1876年にオハイオ州のデイトンに、アルバート・クリフォード・バーネイとアリス・パイク・バーネイの子として生まれた。〔Rodriguez, 18–19.〕父親はイギリス系の裕福な鉄道車両製造業者の息子で、母親はフランス、オランダ、ドイツ系の血を引いていた。〔Rodriguez, 1–14.〕母方の祖父の父親は、ユダヤ人であった。〔Rodriquez, p. 5〕バーネイが5歳のとき、一家はニューヨークのロング・ビーチ・ホテルで避暑をしていたが、偶然にオスカー・ワイルドがアメリカ講演旅行中にそのホテルで講演していた。ワイルドは、幼い男の子の一団から自分の横を走って逃げる彼女をすくいあげ、彼らの手の届かぬところに彼女を置き、ひざに彼女を座らせ、物語を聞かせた。〔Rodriguez, 31. バーネイは''Adventures of the Mind'', 31で、この事件を詳細に物語った〕翌日、彼は浜辺で彼女と彼女の母といっしょになったが、そこでの会話が、夫の幾年後かの反対にもかかわらず、芸術を真剣に追求する霊感をアリスに与えて彼女の人生行路を変えた。〔Rodriguez, 30–31.〕
彼女はのちにカロリュス=デュラン(Carolus-Duran)やジェームズ・マクニール・ホイッスラーのもとで絵を学んだ。〔Haskell.〕
アリス・パイク・バーネイの絵画作品の多くは、現在、スミソニアン・アメリカ美術館にある。〔''Alice Pike Barney: Biography''.〕
当時の多くの少女と同様に、バーネイもでたらめな教育を受けた。〔Rodriguez, 62.〕 彼女のフランス語への関心は、フランス語を早く習得できるようにジュール・ヴェルヌの物語を音読してくれた女性家庭教師から始まった。〔Secrest, 262.〕のちに彼女と妹ローラ・クリフォード・バーネイはレ・リュシュに通学したが、ここは女権拡張男女同権論者のマリー・スーヴェストル(Marie Souvestre)が創設し、エレノア・ルーズベルトのような有名人が通学したフランスの全寮制学校である。〔Rodriguez, 39.〕成人として彼女はなまりのないフランス語を流暢に話し、パリに居を定めた。彼女のほとんどすべての刊行作品は、フランス語で書かれた。
彼女が10歳であったとき、一家はオハイオ州からワシントンD.C.に移り、メイン州のバー・ハーバー(Bar Harbor)で幾夏かを過ごした。町きっての裕福な家庭のひとつの、反抗的な、型にはまらない令嬢として、彼女はしばしばワシントンの諸新聞に名前が出た。20歳代初めに彼女は、ひもでつないだ2頭目のウマに自分の前を走らせつつバー・ハーバーを襲歩で走り抜けたり、両脚を片側に垂らす片鞍乗りをせずに男のように脚を開いて馬にまたがって乗ったりして、大ニュースになった。〔Rodriguez, 59–60, 191.〕

バーネイは、自分が女性同性愛者であることを12歳までに知ったし〔Rodriguez, 52.〕、「率直に、何も隠さずに生きる」決心をした、とのちに言った。〔Benstock, 272.〕1899年、バーネイはパリのダンス・ホールで高級娼婦リアーヌ・ド・プジーを見たあと、小姓の衣裳をまとってプジーの住まいに現われ、自分はサッポーが使わした「愛の小姓」であると伝えた。プジーは、肩書のある裕福な人々のあいだでいつもひっぱりだこの、フランスで最も有名な女性のひとりであったが、バーネイの大胆さは彼女を魅了した。 ふたりの短い情事は、プジーの、すべてを語るモデル実話小説『Idylle Saphique』(サッポーの田園詩)の題材となった。本書は1901年に刊行されて、パリのうわさになり、初年で69回にわたって重刷された。バーネイはまもなく作中人物のひとりのモデルとしてよく知られていた。しかしながら、このときまでには、ふたりは、高級娼婦の生活からプジーを救出したいというバーネイの望みをめぐって喧嘩が繰り返されたあげく、すでに別れていた。〔Rodriguez, 88–103.〕
バーネイ自身は『Idylle Saphique』にひとつの章を寄稿したが、そこで彼女は、サラ・ベルナールの劇ハムレットを見物する、劇場の仕切りを立てられたボックス席でプジーの足元で横になっているところを描写した。〔Rodriguez, 97.〕幕間の間中、バーネイは(「フロッシー」として)ハムレットの苦境を女性のそれと比較した:「無慈悲な運命が、行為への情熱を感じる女性を鎖につなぐとき、彼女らにとって何があるであろう? 承認される法律が男性の法律のみであるときに、運命がわれわれを女性にした」〔As translated in Wickes, 40.〕彼女はまた情事に関する彼女自身の書簡体小説『Lettres à une Connue』(『わたしの知っているある女性への書簡集』)を書いた。バーネイは本書の出版者を見つけられなかったし、のちにこれを世間知らずで下手だと考えたが、これは同性愛を議論したことで評価されるべきである。バーネイは同性愛を自然なものと見なし、アルビノにたとえた。〔Rodriguez, 95.〕「わたしの同性愛は悪徳ではないし、故意ではないし、誰にも危害を加えていない」と彼女は言った。〔As translated in Souhami (2005), 57.〕

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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