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===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ ー : [ちょうおん] (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
ナタリー・ドロン(Nathalie Delon、1941年8月1日 - )は、モロッコ・ウジダ出身の女優・監督。 ==来歴== 本名はフランシーヌ・カノヴァ。 幼少期は母親の度重なる離婚で不遇な少女時代を送る。 10代後半からモデルとして活躍するが、1960年に保険代理業者の男性ギー・バルテルミーと結婚、カサブランカに戻り一女を儲けるも、程なく別居。別居後はモデル時代の芸名ナタリー・バルテルミーでモデル兼カメラマンとして活動する。1963年、離婚。娘の親権はバルテルミーが持った。 1963年に『黒いチューリップ』を撮影中のアラン・ドロンと出会い、恋に落ちる。 両者は子供時代の境遇が酷似しており、強く惹かれあったとされる。 ナタリーをアランに紹介したのは、アランの証言では「貴族階級出身の知人」だった〔UNKNOWN INFORMATION FOR NATHALIE DELON 〕が、実際はアランのボディーガードだったステファン・マルコヴィッチだったとされている〔An Affair Markovic 〕。マルコヴィッチはナタリーの愛人で、アランとの結婚後も関係は続いた〔。他に夫妻のハリウッド滞在中にはエリザベス・テイラーと離婚したばかりのエディ・フィッシャーとも浮名を流す〔Elizabeth Taylor: The Lady, The Lover, The Legend - 1932-2011〕。 1964年に結婚。アランとの間に息子のアントワーヌを儲ける。 1967年にアランが主演したサスペンス『サムライ』で映画デビュー。日本では翌年に出演した『個人教授』で大ブレイクする。 1968年、女優業を続けたい彼女の願いに反対だったアランと徐々に対立するようになり、別居。 1968年10月、マルコヴィッチが殺害され、遺体が発見される。ドロン夫妻は重要参考人として召喚され(ナタリーはイタリアでの映画撮影中を理由に拒否)、特にアランは容疑者として何度も取調べを受けているが、結局真犯人不明のまま、事件は迷宮入りに。この「マルコヴィッチ事件」は大きなスキャンダルとなり、アランのマフィアとの癒着、ドロン夫妻とマルコヴィッチの「三角関係同居」、マルコヴィッチが上流階級相手に「社交場」を経営しており、その常連客がジョルジュ・ポンピドゥー大統領夫妻だったなどが連日報じられることとなった〔。 このスキャンダルの渦中の1969年に離婚。 離婚後はロベルト・マレノッティ監督、スーザン・ストラスバーグと共演した『姉妹』を皮切りに積極的に映画に出演。1971年には『もういちど愛して』で離婚後唯一となるアラン・ドロンとの共演を果たす。1972年のエリザベス・テイラーの夫リチャード・バートンとの共演作『青ひげ』は、米国では作品よりもバートンとナタリーの関係及び、それがバートン/テイラーの離婚話を本格化させたというゴシップ絡みで注目された〔How Richard Burton vowed never to betray Elizabeth Taylor...then, days later, seduced his co-star 〕。他の代表作に1976年のロジェ・ヴァディム監督、シルビア・クリステル主演の『華麗な関係』などがあるが、徐々に脇役が多くなる。 1983年の短編映画以降は女優業からは遠ざかっていたが、2008年の「Nuit de chien」で久々に女優復帰を果たす。 1982年には「Ils appellent ça un accident」で監督業にも進出。1988年には監督2作目となる『スウィート・ライズ』を監督した。 アラン・ドロンとの間に儲けた息子のアントワーヌは後に、アントニー・ドロンの芸名で俳優となった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ナタリー・ドロン」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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