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ナリサフ ( リダイレクト:ナルセ1世 ) : ウィキペディア日本語版 | ナルセ1世[なるせ1せい]
ナルセ1世(Narseh, 生没年不詳)、サーサーン朝ペルシアの第7代君主(シャーハーン・シャー、在位:293年 - 302年)。第2代シャープール1世の息子で、第3代ホルミズド1世・第4代バハラーム1世の弟。アラビア語・ペルシア語文献では نرسى Narisā / نرسي Narsīなどと書かれるが、パフラヴィー語の貨幣銘文では nrsḥy であり、ギリシア語文献では Ναρσης, Ναρασαιος と書かれたため、''ナルセス''と表記されることもある。一般には Narseh と書かれるが、語末の「h」は閉音節で発音される可能性が高く、特に中期イラン語における発音の復元がいまひとつ確定しきれていない名称のため、研究者によっても表記が定まっていない(ナルセ、ナルセー、ナルセフあるいはナリサフなど)。生前息子のホルミズド2世に譲位をしており、死亡年は定かではない。ただホルミズド2世の死の時には既に亡くなっていたようである。 == 政権奪取 == ナルセは「高貴なマズダ崇拝者」という尊称を与えられ、末子にもかかわらず最も広大な領域を与えられた。ナルセが任命されたのはサカの王だったが、正式な称号は「シンド(:en:sindh)、スィジスターン、トゥーラーンから海の端までの王」であり、クシャーナ朝の旧領域を含んでいた。これは実質クシャーンの王を意味した。バハラーム1世の時には王の中で最も位の高いアルメニア王になり、バハラーム2世の時にはサーサーン朝の君主にのみ認められた貨幣発行権を破って、自分の名と肖像を刻印した貨幣を独自に発行し、自分こそが正当な継承者だという意志を見せていた。 ナルセは貴族達の求めに応じてバビロニアへ至り、盟約を結んだ。この時、以前ナルセの即位を阻んだカルティールも来ていたとされる。この地パイクリには碑文が残されており、この時の支援者リストが刻印されている。このリストの特徴は登場しているほとんどの王が辺境の王達であり、王家の王子達の名は無く、キルマーン、メルヴ、ギーラーン、メシャンといった重要地域、カーレーンやスーレーンといった名門の名もないという点にある。カルティールもシャープールもこの時点でバハラーム3世を見限っていた可能性が高い。バハラーム1世がこの両者の支援で登極したことを考えれば、わずか数ヶ月でクーデターが成立したことが理解できる。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ナルセ1世」の詳細全文を読む
英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Narseh 」があります。
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