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ナルシス・ムントリオル・イ・アスタリオル(, 1819年9月28日 - 1885年9月6日)は、カタルーニャの技術者、芸術家、知識人。水面下を航行するという問題に取り組み、1859年〔参考:アメリカ独立戦争で使われた「タートル」は1776年、南北戦争時の「ハンリー」は1864年。〕には人力駆動の潜水艇イクティネウIを公開試験。1867年にはイクティネウIIに化学反応の発熱を利用する蒸気機関を積み、水面下を航行させることに成功した。彼の非大気依存推進はヘルムート・ヴァルターのヴァルター機関に半世紀以上も先んじていた。 ==前半生== ムントリオルはスペイン、カタルーニャ地方の都市フィゲーラスで生まれた。父親は桶屋であった。サルベーラの高等学校に通い、1845年にはマドリードで法学の学位を取得した。 ムントリオルは法曹界には進まず、文筆業と出版業に転向して1846年に出版社を起業した。同年、エミリア(Emilia)という女性と結婚。彼は雑誌やパンフレットを刊行して、自らのラディカルな思想(フェミニズム、平和主義、ユートピア的共産主義)を世に問うた。彼はまた「男性の専制から女性を防衛する」ことを目的と謳う新聞"La Madre de Familia"や、スペイン初の共産主義新聞"La Fraternidad"を創刊した。 友人のイルデフォンソ・セルダ(都市計画家)らとともに共和主義運動を行なった。ムントリオルはエティエンヌ・カベ(Étienne Cabet;フランスの思想家)のユートピア思想の熱心な支持者でもあった。彼は新聞"La Fraternidad"でその思想を広め、またそのユートピア小説"Voyage en Icarie"(イカリアへの旅)をスペイン語訳した。 1848年革命の結果、彼の刊行物は政府の弾圧を受けることになり、彼自身も一時フランスへ亡命することを余儀なくされた。1849年にバルセロナに戻ったが政府により出版活動が制限されたため、代わりにムントリオルはその精力を科学と技術に向けた。 カダケスへの滞在中、彼は珊瑚採りの海士が溺死するのを目撃し、その仕事が危険であることを知った。このことが刺激となり、彼は水中航行について考え始め、1857年9月にバルセロナに戻ると、水中航行の研究を目的に、1万ペセタの資本金で"Monturiol, Font, Altadill y Cia."という名の営利組織を創立した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ナルシス・ムントリオル」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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