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ナルヴィクの戦いとは、第二次世界大戦中、ノルウェーで行われた作戦の一部であり、オフォトフィヨルドでの海戦、ノルウェー北部の町、ナルヴィクを取り囲む山々で行われた陸戦の双方を含んだ戦いのことであり、1940年4月9日から6月8日まで行われた。 2ヶ月間、ノルウェー軍、フランス軍、イギリス軍、ポーランド軍らの部隊がドイツ軍、オーストリア軍らの山岳部隊、難破した軍艦の乗員、ドイツ第7航空師団所属第1降下猟兵連隊の第1大隊から派遣された降下猟兵らと戦う間、4月10日から13日までオフォトフィヨルド内でイギリス海軍、ドイツ海軍の間で海戦が2回行われた。ナルヴィクはスウェーデンのキルナ近辺から産出される鉄鉱石を輸送する際、北大西洋の不凍港を提供していた。ドイツ軍、連合軍らはそれぞれ、この鉄鉱石を敵側に渡さないことに関心があり、第二次世界大戦においてポーランド侵攻以来の大規模な戦闘が行われる舞台のお膳立てをしていた〔Narvik Naval Battle - A BBC article〕 。 ドイツ軍の侵入以前にイギリス軍はナルヴィクを冬戦争においてフィンランドを支援、もしくはスウェーデンの鉱山を管理するために上陸できる箇所と考えていた。また、フランスの政治家たちはできるだけフランスから遠い地域に第2の戦線を作成することを望んでいた。 ==ドイツ軍の侵入== 1940年3月1日、ドイツ総統アドルフ・ヒトラーはノルウェー侵攻を命令、ヴェーザー演習作戦 (Unternehmen Weserübung) と命名された。この作戦にはドイツ海軍の大部分が参加し、ノルウェー攻略にあたる艦艇は6つのグループに分けられた。 ナルヴィク攻略にあたるグループ1は駆逐艦ゲオルク・ティーレ、ヴォルフガング・ツェンカー、ベルント・フォン・アルニム、エーリッヒ・ギーゼ、エーリッヒ・ケルナー、ディーター・フォン・レーダー、ハンス・リューデマン、ヘルマン・キュンネ、ヴィルヘルム・ハイドカンプ(旗艦)、アントン・シュミットで構成され、フリードリヒ・ボンテ代将が指揮した。各艦にはエデュアルト・ディートルが率いる第139山岳猟兵連隊の陸軍将兵が約200名ずつ、合計1,900名が乗っていた〔Jaklin 2006, p. 31〕。 グループ1は4月6日夜にヴェーザーミュンデから出航し、トロンハイムへ向かうグループ2や巡洋戦艦シャルンホルスト、グナイゼナウとともに北上した。その途中、遭遇したイギリス駆逐艦グロウォームを撃沈した。4月8日夜にロフォーテン諸島沖で2隻の巡洋戦艦と別れてグループ1ヴェストフィヨルドを北上し、4月9日未明にナルヴィクへ通じるオフォトフィヨルドに入っていった。ただ、途中嵐の中を航行する際に特に燃料消費が大きかったエーリッヒ・ギーゼは、燃料節約のため遅れていた。オフォトフィヨルドにはいったグループ1はノルウェーの監視艇Michael SarsとKeltに発見された。ノルウェーの監視艇は、9隻のドイツ駆逐艦がオフォトフィヨルドに入ったと報告した。フィヨルド途中のラムネース水道には要塞があると思われていたためハンス・リューデマンとアントン・シュミットがその攻略に向かったが、実際はそのようなものは存在しなかった。フィヨルドの外へ向かっていたノルウェーの監視艇Senjaがこのドイツ駆逐艦を発見したが、誤ってイギリス駆逐艦と報告した。後でドイツ駆逐艦と修正されたが、その通信は届かなかった。 続いてボンテはヴォルフガング・ツェンカー、エーリッヒ・ケルナー、ヘルマン・キュンネの3隻をヘリヤンクスフィヨルドのエルヴェゴール占領に向かわせ、ヴィルヘルム・ハイドカンプとゲオルク・ティーレ、ベルント・フォン・アルニムを率いてナルヴィクへと向かった。もう1隻の駆逐艦ディーター・フォン・レーダーはオフォトフィヨルド入り口で哨戒に当たっていた。 ナルヴィクにはノルウェー海軍のノルゲ級海防戦艦アイツヴォルとノルゲが停泊していた。ドイツ駆逐艦のフィヨルド侵入が伝えられていたため、海防戦艦では戦闘準備が整えられていた。4時15分に吹雪の中からドイツ駆逐艦が現れると、港外に停泊していたアイツヴォルは発光信号で誰何したがドイツ駆逐艦からの返答はなかった。そのため警告射撃を行い停船を命じる信号旗を掲げた。この後ヴィルヘルム・ハイドカンプは停止し、ゲルラッハ(Gerlach)中佐と信号手がアイツヴォルへと向かった。ゲルラッハはアイツヴォルのヴィロック(Willoch)艦長と会い、降伏を要求した。ドイツ軍の侵入者に対しては抵抗するよう命じられているため上官と相談する必要があるとヴィロックは述べた。ヴィロックは上官に連絡を取り明確な攻撃命令を受けた。それを告げられたゲルラッハは、アイツヴォルから離れると赤色の信号弾を発射した。この時、ヴィルヘルム・ハイドカンプはアイツヴォルから700m離れた場所にあり、魚雷発射管はアイツヴォルのほうに向けられていた。ボンテはアイツヴォルからの攻撃があるまで攻撃を待とうとしたが、アイツヴォルが体当たりを試みようとしているように見えたこともあり、ヴィルヘルム・ハイドカンプ艦長Hans Erdmenger中佐が魚雷発射命令を求め、ボンテも許可した。ヴィルヘルム・ハイドカンプは4本の魚雷を発射し、その内2本ないし3本が命中した。アイツヴォルは弾薬の誘爆と思われる爆発を起こし、沈没した。4時37分のことであった。艦長以下177人(または115人)が死亡し、生存者は8人であった。 一方、ゲオルク・ティーレとベルント・フォン・アルニムは停船せず、港内に入って兵員を上陸させ始めた。港内に入ってくる2隻のドイツ駆逐艦はノルゲから視認されたが、すぐに雪の中に消えてしまった。続いてアイツヴォルが爆発した音が聞こえたが、やはり何も見えなかった。4時45分に再びドイツ駆逐艦が確認できると、ノルゲのペール・アスキム(Per Askim)艦長は砲撃を命令した。ノルゲは800mの距離で、21cm砲弾5発と7から8発の15cm砲弾を発射したが命中しなかった。ベルント・フォン・アルニムが12.7cm砲で応射したが、こちらも命中しなかった。続いてベルント・フォン・アルニムは7本の魚雷を発射し2本が命中した。ノルゲは転覆し沈没した。アスキムを含め96人が救助されたが、105人が死亡した。ナルヴィクは上陸したドイツ軍により占領された。 ラムネース水道で分派された駆逐艦はそこに兵員を上陸させたが、要塞が無いとわかると再び兵員を収容しナルヴィクへと向かった。 ナルヴィク占領に成功すると、ドイツの駆逐艦は帰路のための燃料補給を開始した。本来なら事前に2隻のタンカーが到着しているまずであった。しかし、ナルヴィクにはヤン・ヴェレム(Jan Wellem、11,776トン)しか到着していなかった。ヤン・ヴェレムは4月6日にソ連領内にあったドイツの基地Basis Nordを出発し4月8日にナルヴィクに到着していた。もう1隻のタンカーカテガット(Kattegat、6,031トン)は4月3日にヴィルヘルムスハーフェンを出発したが、4月10日朝にノルウェーの哨戒艇ノールカップ (Nordkapp) に発見され自沈していた。ヤン・ヴェレムは元々は捕鯨母船であり、給油能力が低かった。給油は同時に2隻までにしか行えず、しかも十分な量給油するのに8時間も要した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ナルヴィクの戦い」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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