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第1次ナルヴィク海戦(だいいちじ - かいせん、、)は、第二次世界大戦中の1940年4月10日にノルウェーのオフォトフィヨルドで生起した海戦。4月9日にドイツ海軍の駆逐艦10隻がナルヴィクに到着し、ナルヴィクを占領した。その翌日、イギリス海軍の駆逐艦5隻がフィヨルド内に進入してナルヴィク港に停泊中の艦船に攻撃をかけ、海戦が発生した。双方2隻の駆逐艦を失った。また、両軍の指揮官も戦死した。 == 海戦までの動き == ===ドイツ=== 1940年4月、ドイツ軍はノルウェー侵攻を開始し、ノルウェー各地に向けて攻略部隊が出撃した。そのうちの一つ、ナルヴィクに向かう部隊は10隻の駆逐艦、ヴィルヘルム・ハイドカンプ、アントン・シュミット、ディーター・フォン・レーダー、ハンス・リューデマン、ヘルマン・キュンネ、ヴォルフガング・ツェンカー、エーリッヒ・ケルナー、エーリッヒ・ギーゼ、ゲオルク・ティーレ、ベルント・フォン・アルニムで構成されており、フリードリヒ・ボンテ代将に率いられていた。4月7日にドイツを出撃した攻略部隊は、トロンハイムへ向かう部隊や巡洋戦艦シャルンホルスト、グナイゼナウと共に目的地へ向けて北上した。途中、天候が荒れてきたため駆逐艦はばらばらとなってしまった。4月8日7時15分、ハンス・リューデマンがイギリス駆逐艦グロウォームと遭遇し戦闘となった。グロウォームは応援に駆けつけた重巡洋艦アドミラル・ヒッパーと交戦後、アドミラル・ヒッパーに体当たりして沈没した。 4月8日20時ごろ巡洋戦艦2隻と分かれ、ナルヴィク攻略部隊はナルヴィクのあるオフォトフィヨルドへ繋がるヴェストフィヨルドへ向かった。4月9日3時10分、遅れていたエーリッヒ・ギーゼを除く9隻の駆逐艦はオフォトフィヨルドへ入っていった。攻略部隊はノルウェーの哨戒艇2隻と遭遇し、それを降伏させた。ラムネース水道ではハンス・リューデマンとアントン・シュミットがそこにあると考えられていた要塞の占領に向かった。だが、実際には何も無かった。続いてヴォルフガング・ツェンカー、エーリッヒ・ケルナー、ヘルマン・キュンネがヘリヤンクスフィヨルドのエルヴェゴールに兵員を上陸させに向かい、そこを占領した。また、ディーター・フォン・レーダーはフィヨルド入り口の監視に残された。そして残りの3隻、旗艦のヴィルヘルム・ハイドカンプとゲオルク・ティーレ、ベルント・フォン・アルニムの3隻はナルヴィクへ向かった。ナルヴィク港にはノルウェー海軍のノルゲ級海防戦艦エイスヴォルとノルゲがいた。天候は吹雪で視界は非常に悪かった。アイツヴォルはドイツの駆逐艦に対して停船を命じた。ボンテは士官を派遣し、その間にゲオルク・ティーレ、ベルント・フォン・アルニムは姿を消した。派遣された士官は降伏を要求、それが拒否されたため士官がアイツヴォルを離れた後ヴィルヘルム・ハイドカンプは魚雷を発射した。4時37分、2本の魚雷が命中したアイツヴォルは爆沈した。もう1隻の海防戦艦ノルゲは波止場の付近にベルント・フォン・アルニムを発見した。ノルゲはベルント・フォン・アルニムに対し砲撃を開始したが命中せず、ベルント・フォン・アルニムも反撃した。4時55分、ベルント・フォン・アルニムの発射した魚雷が命中したノルゲは転覆、沈没した。アイツヴォルでは175名が戦死して生存者は8名、ノルゲでは101名が戦死して生存者は90名であった。 ナルヴィクの守備隊は4月9日8時に降伏した。その後ドイツの駆逐艦は給油を始めたが、利用できるのはヤン・ヴェレン1隻であり、同時に給油できるのは2隻までであったため、給油が完了するまでにかなりの時間がかかることが予想された。もう1隻ナルヴィクに向かっていた油槽船カテガットはノルウェーの哨戒艇によって沈められていた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「第1次ナルヴィク海戦」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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