|
===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ ー : [ちょうおん] (n) long vowel mark (usually only used in katakana) ・ 関 : [せき, ぜき] (suf) honorific added to names of makuuchi and juryo division sumo wrestlers
ナンシー関(ナンシーせき、本名:関 直美(せき なおみ)、女性、1962年7月7日 - 2002年6月12日)は、青森県青森市生まれの版画家、コラムニストである。法政大学文学部第二部(夜間部)中退。 独特の観察眼による「テレビ批評」とその挿絵に入れた著名人の似顔絵「消しゴム版画」で社会そのものを批評していた。その文章は古びることがなく、今も新たな読者を獲得している〔。世界初の消しゴム版画家である〔週刊プレイボーイ2014年11月24日47号「2014年話題の10人をナンシー関のゴム版で振り返ってみた!」より〕。 == 経歴 == 1962年、青森県青森市に三人きょうだいの長女として生まれる。2歳下の妹と7歳下の弟がいる。父親は同郷のプロボクサーのレパード玉熊の後援会会長を務めていた。言葉が出るのも字が読めるのも早く、2-3歳のころには一人で絵本を読んでいた。1969年青森市立堤小学校に入学。同級生によれば性格は他の子より大人びて冷静だったという。手先も器用でパラパラマンガを描いたり、クラスメイトの消しゴムに文字を彫るいたずらもした。小学校に入学してから急に太り始めたため、心配した両親は病院を受診させるが、結果は「異常なし」だった。当時の青森には民放が2局しかなく、のちにテレビについては恵まれない幼少期を送ってきたと述懐している。小学生時代夢中になったのは「8時だョ!全員集合」のザ・ドリフターズとアイドルの郷ひろみだった。 青森市立浦町中学校を経て、カトリック系ミッションスクールの青森明の星高等学校に進学。『ビックリハウス』『宝島』『スタジオ・ボイス』などサブカルチャー系の雑誌を読み漁り、YMOやムーンライダーズのファンになる。図工・美術の成績は小学生時代からほとんど5で得意だったのはクロッキーやデッサン。クラスで1週間ほど消しゴム版画が流行ったことがあるが、ナンシーの彫ったゴダイゴやツイストのバンドロゴは抜群にうまく、クラスメイトたちから注文が殺到した。またクラスメイトと芸能新聞のようなものを発行したこともある。『所ジョージのオールナイトニッポン』や『ビックリハウス』に投稿をはじめ、『オールナイトニッポン』でハガキが読まれた翌日は拍手喝采で教室に迎えられた。将来は無根拠に東京に出ることを確信していた。ただそれを言葉で認識することされることに抵抗があったという。 高校卒業後、上京すると高田馬場の早稲田予備校に通う浪人生活がはじまる。高校3年の正月からはじまった『ビートたけしのオールナイトニッポン』に傾倒する。放送がある木曜の夜はなるべく出かけず、放送開始とともにラジカセの録音ボタンを押し、CMをとばしてカセットテープに録音、これを次週の放送まで7-8回繰り返して聴いていた。。この番組にもハガキを投稿、番組コーナーで採用されている。ナンシーの旧友は、彼女にとってたけしのラジオは宗教に近かったと証言している。 1982年、法政大学第二文学部日本文学科に入学。11月に広告批評主宰「広告学校」に入学。大学にはほとんど行かず、広告学校も仕事を紹介してくれるわけでないと知って行かなくなる。親の仕送りと軽作業のバイト代で毎日ダラダラとテレビを見てすごす。翌年妹が進学のため上京、95年まで同居した。ひまつぶしに編み物や粘土細工を作り、高校時代流行った消しゴム版画を再び彫る。モチーフはカネテツのテッちゃんや花登筺の小説「あかんたれ 土性っ骨」の丁稚の少年。丁稚の版画は10種類作りそれぞれ「たたきあげ」「おでかけ」などの文字を入れた。消しゴム版画の人物にキャプションを添える特徴的なスタイルはこの頃既にあった。広告学校で知り合った友人(のちのえのきどいちろう夫人)の手帳に押したところ、えのきどの目に留まり、ライター事務所「シュワッチ」に籍を置く。えのきどは『ホットドッグ・プレス』の新人編集者のいとうせいこうに紹介、ペンネームの名づけを頼む。いとうは当時イラストレーターに「ペーター佐藤」「スージー甘金」のようなふざけた名前が流行っていたのにならって本名の関直美から「ナンシー関」と「その場のノリ」で名づけた。 ナンシー関としてのデビュー作は1985年3月10日号の『ホットドッグ・プレス』の萩原健太のコラムに彫った消しゴム版画。その後も同誌のコラムや連載、読者投稿欄のイラストを消しゴム版画で担当する。ナンシーは依頼された仕事を全て編集部の中で行った。当時のライターはみな編集部に通って書いていたが、イラストレーターとしては異例だった。1年後、1986年6月25日号から芸能人に関するコラム「対岸に火をつけろ」を連載。これがナンシーにとってはじめての文章の仕事だった。ペラ(200字詰め原稿用紙)3枚ほどの分量だったが、書き方がわからず改行なしで書いてしまったという。 1986年1月から『ミュージック・マガジン』のえのきどいちろうのコラムでイラストを担当。さらに1988年1月号から3年間表紙イラストを手がけミック・ジャガー、ジェームス・ブラウン、U2などの外国人ミュージシャンを彫る。同年『月刊カドカワ』6月号から1ページコラム「テレビ目抜き通り」連載。テレビに関するコラムと消しゴム版画という組み合わせがここで現れる。1989年、「シュワッチ」から独立、CM関係など一部の業務だけいとうせいこうが作った「エムパイヤ・スネーク・ビルディング」に預ける。 1990年、『噂の眞相』5月号からテレビコラムの連載スタート。「ナンシー関のチャンネルオフ」「迷宮の花園」とタイトルを変更、1993年4月から「顔面至上主義」として亡くなるまで連載した。 1991年7月、最初の単行本『ナンシー関の顔面手帖』出版。当初シンコーミュージックの編集者が、川勝正幸、高橋洋二、ナンシー関の共著として企画したが、3人とも遅筆であったため、ナンシーの単著に変更。1年半以上かけて69人の人物評と消しゴム版画の原稿を書き下ろした。ナンシーが青森に帰省した際『顔面手帖』を読んだ彼女の両親は「こんな人さまの悪口を書いて抗議されたり刺されたりしたら大変。やめて欲しい」と本気で心配した。以後ナンシーは自分の仕事について両親に話すことはなかった。 1991年12月から『スタジオ・ボイス』で「ナンシー関の信仰の現場」連載。矢沢永吉のコンサート、キックボクシング会場、公団建売抽選などを取材した初めてのノンフィクション作品だったが、原稿料滞納を理由に13回で打ち切り。1993年、『野性時代』で連載再開、翌年7月『信仰の現場 すっとこどっこいにヨロシク』として刊行。毎回原稿用紙8ページという分量は彼女にとって厳しく、また視力も悪かったため自分は取材下手だと思ったという。 1992年、世界文化社からこれまでさまざまな雑誌に書いた原稿をまとめた『何様のつもり』刊行。その後「何シリーズ」としてナンシーの生前10冊が出版され、合計部数は30万部を超えた。 1993年1月から週刊朝日で「小耳にはさもう」の連載が始まる。副編集長が同誌で連載していた松尾貴史からナンシー関の名前を聞き、『噂の眞相』の連載を見て依頼した。合わせて山藤章二からも「あの絵はよい」と推薦を受けた。最初の打ち合わせは荻窪のレストランに自転車で現れた。企画、コンセプトからタイトルまでテキパキ固め実際の作風とは全く異なり、話し方は極めて素朴でほんわかとしていた。同年週刊文春10月21日号から「ナンシー関のテレビ消灯時間」を連載。この2つの連載でナンシー関の名は全国区に知られるようになる。 1994年『CREA』5月号でダウンタウンの松本人志と対談。この中で松本が「今お笑いの批評ができるのはナンシーさんとみうらじゅんだけ」と発言。放送作家の高橋洋二によればこれをきっかけにテレビ出演者の間でもナンシーを支持する声が増えたという。 1995年夏、祐天寺にマンションを購入、一人暮らしをはじめる。しかししめきりに追われ、1日の20-30本のショートピースを吸い、ストレスを飲み食いで発散する生活は確実に彼女の体を蝕んでいた。90年代半ばごろから少し歩くだけで息切れするようになり、体型も若いころより大きくなっていた。いとうせいこうはナンシーが亡くなる数年前から酒やタバコを控えるように忠告していた。大月隆寛も健康診断を勧めたが、生活態度を改めることも、人間ドッグに入ることもなかった。 2002年6月11日の夜、友人と中目黒の飲食店で新作の餃子を食べたあと、10時ごろ一人でタクシーに乗り、祐天寺のマンションに帰宅する途中意識を失う。タクシーの運転手が駅前交番に駆け込み通報、救急車で東京医療センターに搬送されたが、12日午前0時47分死去。行政解剖の結果、死因は虚血性心不全と判明。16日、ナンシーの実家近くの寺院で行われた葬儀は、黒柳徹子、ビートたけし、坂本龍一、宮部みゆきなどの著名人をはじめ数えきれないほどの弔花が並ぶ、盛大なものだった。遺骨は関家の菩提寺である夢宅寺の墓に納められた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ナンシー関」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|