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ナヴォイ劇場 : ミニ英和和英辞書
ナヴォイ劇場[なヴぉいげきじょう]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [げき]
 【名詞】 1. (1) drama 2. play 3. (2) powerful drug (abbr) 
劇場 : [げきじょう]
 【名詞】 1. theatre 2. theater 3. playhouse 
: [ば]
 【名詞】 1. place 2. field (physics) 

ナヴォイ劇場 : ウィキペディア日本語版
ナヴォイ劇場[なヴぉいげきじょう]

ナヴォイ劇場(ナヴォイげきじょう、、)は、タシュケントにあるオペラバレエのための劇場である。正式名称は、アリシェル・ナヴァーイー記念国立アカデミー大劇場(、)。アリシェル・ナヴァーイーは、ウズベキスタンの伝説的な英雄で、文学、伝承でも度々取り上げられる人物〔ウズベキスタンの州の一つであるナヴァーイー州の名前の由来でもある。ナヴォイはナヴァーイーのロシア語名。〕。第二次世界大戦ソ連の捕虜となった日本人が建設に携わったことで知られる。
== 概要 ==
ナヴォイ劇場は、アレクセイ・シュチューセフが設計して1939~1942、1944~1947年に建設され、1947年11月にアリシェル・ナヴァーイー生誕500周年を記念して初公開されている。劇場の収容観客数は1400人で、舞台の広さは540平方メートルである。〔Alisher Navoi Opera and Ballet Theater (英語) 〕。
ソ連は、レーニンによる政権樹立を行なった1917年11月の革命30周年にあたる1947年11月までにこの劇場を建設することを決定して建築を進めていた。しかし、第二次世界大戦が始まったため、土台と一部の壁、柱などがつくられた状態で工事が止まっていた。そのため大戦後、日本人捕虜を活用して革命30周年に間に合わせることを命題とし、建築に適した工兵457人の日本兵が強制的に派遣された。ソ連の捕虜になったのは合計60万人とも言われ、満州で捕虜となった日本兵はシベリアなどで森林伐採、道路・鉄道建設に従事しており、この劇場建設の任務は特殊業務であった。
劇場建設の仕事は班ごとに別れて行われた。仕事内容は、土木作業、床工事と床張り、測量、高所作業(とび職)、レンガ積み(外壁作り)、電気工事、鉄筋と鉄骨組み立て、ウインチ、足場大工、大工に左官工事、板金、建物が出来上がった来たら電気配線工事、溶接、指物、壁などの彫刻など20種類くらいの職種ごとの班に別れて、効率的に作業をすすめた。日本人で死亡したのは、劇場建設の高所作業に従事していた者の転落事故と外出時に汽車に轢かれて死亡した2人。この2人はタシケント抑留日本人墓地(公営ヤッカサライ墓地)に当時死亡した日本人と共に埋葬されている。
労働時間は規則正しく8時から12時、1時間の昼食をはさんで13時から17時までの8時間労働。休日は日曜、元日メーデー、革命記念日。食料は1日一人当たりの配給量が決まっていたが、馬鈴薯は腐っている所が多いなど十分な量ではなかったが、3食規則正しく出された。1日1800から2200キロカロリー位の摂取量だった。ノルマの達成度合いによってパンの量に差をつけよとソ連から命令されたが、隊長を務めた永田行夫(当時25歳)の交渉により平等配分をソ連側に認めさせた〔「追憶 ナボイ劇場建設の記録 -シルクロードに生まれた日本人伝説ー」NPO日本ウズベキスタン協会編集 P.19〕。
また、収容所では自由時間に建築現場の床材から麻雀パイを作ったり、紙から将棋囲碁トランプ花札を作ったりした娯楽により捕虜たちの気分転換を奨励したり、地元のウズベク人を招いた演芸大会も行なわれた。生活の悩みは住居であった収容所に多量にいた南京虫。ベッドの隙間に無数に生息し、当初かまれるとかゆくて寝られないこともあったが、徐々に免疫が出来てかゆくなくなってきた。殺虫剤はないので、退治のために晴れた休日に庭にベッドを出して日光を当てて焼き、効果はあったが全滅させることはできなかった〔「追憶 ナボイ劇場建設の記録 -シルクロードに生まれた日本人伝説ー」NPO日本ウズベキスタン協会編集 P.21〕。
なお、サマルカンド国立外国語大学で教授を務めた胡口靖夫は、ナヴォイ劇場の建設に従事した日本人の「私らが昭和20年11月上旬ころに着いたときにはもう建物はほとんどでけていました。これは間違いありません」という証言などから、「日本人捕虜が建設に参加した時には、基礎はもちろん建物本体はほとんどできていた。日本人捕虜が行った作業の中心は、左官・彫刻・寄せ木作りの床張り・大理石の床張り・電気工事などの内外装工事の『仕上げ』であった」と結論付けており、「勤勉に働いた日本人が基礎からレンガを積み上げて“建設”した」とされるのは「伝説」だとして、それが検証なしに広められていることを批判しているが、実際の建設に携わられた抑留者の方や現地のウズベク人、ならびにウズベキスタン政府が認識している話とは異なっているため、この認識は誤りであると思われる〔シルクロード日誌5《文化遺産としての「ナボイ劇場」建設の“真実”》その1 〕。
1966年4月26日のタシュケント地震では、78,000棟の建物が倒壊したにもかかわらず、ナヴォイ劇場は無傷であり〔赤井克己『おかやま雑学ノート』吉備人出版 2000年 p.118-121〕、市民達の避難場所としても機能した。
2015年9月30日にジャーナリストの嶌信彦は隊長の永田行夫など実際に建設に携わった多くの方の取材を元にナヴォイ劇場建設の秘話をノンフィクション『日本兵捕虜はシルクロードにオペラハウスを建てた』として角川書店から出版した。この本には詳細な抑留生活やウズベク人との交流などが描かれ、これまで出版された多くのシベリア抑留の悲劇とは違った日本人の勤勉で素晴しい和の精神などの秘話が描かれている〔嶌信彦ブログ 嶌信彦オフィシャルサイト〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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