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ニギディウス・フィグルス : ミニ英和和英辞書
ニギディウス・フィグルス
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。


ニギディウス・フィグルス : ウィキペディア日本語版
ニギディウス・フィグルス
プブリウス・ニギディウス・フィグルス、(Publius Nigidius Figulus紀元前98年頃–紀元前45年ヒエロニムスの『年代記』はニギディウスの命日の日付の典拠である。〕)は、共和制ローマ後期の学者で、紀元前58年にはプラエトルであった。彼はキケローの友人で、カティリナの陰謀の折にはキケローに助力している。〔プルタルコス, ''Cicero'', 20; Cicero, ''Pro Sulla'', XIV. 42.〕 ニギディウスはガイウス・ユリウス・カエサルポンペイウス・マグヌスローマ内戦ではオプティマテス(閥族派)に与している。
ニギディウスの学問に関して名声は同時代人の間ではマルクス・テレンティウス・ウァロに次ぐ二番手にすぎない。同時代においてさえ彼の著書は難解と見なされたが、それはひょっとするとその秘教ピタゴラス主義の故なのかもしれない。ニギディウスはストア派の要素とピタゴラス主義を合体させた。ヒエロニムスは彼を「''Pythagoricus et magus''」つまり「ピタゴラス主義者にして魔道士」と呼んだ。また中世からルネサンスにかけてニギディウスは慣習的に魔法使い占い師オカルティストとして描かれた。彼は膨大な量の著作をものしたが、現代では他の作者の著作に断片として残っているに過ぎない。
==政治的経歴==
紀元前63年までに、ニギディウスは元老院に入ることを認められた〔Cicero, ''Pro Sulla'' 42; スエトニウス, ''Augustus'' 94.5; プルタルコス, ''Cicero'' 20.2.〕彼は紀元前60年にはアエディリスになっているかもしれないが、一方で紀元前59年にキケローがニギディウスは陪審員を召喚する(''compellare'')立場、つまり護民官であると述べている〔Giovanni Niccolini, ''I fasti dei tribuni della plebe'' (Milan 1934), p. 281, based on Cicero, ''Ad Atticum'' 2.2.3.〕。彼は紀元前58年にはプラエトルであったが〔Cicero, ''Ad Quintum fratrem'' 1.2.16.〕、それ以降は紀元前52年~紀元前51年クイントゥス・ミヌキウス・テルムスの下、アシア属州レガトゥスに就くまでいかなる公的立場にあったか記録されていない。彼は紀元前51年7月にアシア属州を去った。〔Cicero, ''Timaeus'' 2; T.R.S. Broughton, ''The Magistrates of the Roman Republic'', vol. 2, 99 B.C.–31 B.C. (New York: American Philological Association, 1952), pp. 190, 193 (note 5), 194, 239, 245.〕
アルナルド・モミリアーノは一見したところ矛盾とも取れる、ニギディウスの政治的経歴とオカルト的経験について説明しようとした。

ウァロも、アエリウス・スティローのストア主義や懐疑主義的なアンティオコスプラトニズムの教えを受けていたが、自身の葬式はピタゴラス主義に則って行うよう頼んでいた〔ガイウス・プリニウス・セクンドゥス, ''Historia naturalis'' 35.160; Momigliano, "Theological Efforts," pp. 201–202.〕。19世紀歴史家テオドール・モムゼンは、共和制後期におけるオカルト的なものへの関心とヴィクトリア朝期の「最高の階級と教育を備えた人々」を魅了した「降霊術においてがテーブルをたたいたり操作したり(コックリさんの起源)すること」と比較している〔テオドール・モムゼン, ''History of Rome'', vol. IV (London 1867), p. 563 (Dickson’s translation).〕。
ピタゴラス主義はローマでは政治的観点とは特に関連付けられていなかった。ニギディウスは元老院の保守的な共和主義者の中に忠実な方法で留まっていたが、同時代の政治家でもう一人の最もよく知られたピタゴラス主義者のプーブリウス・ウァティニウスはカエサルの長年にわたる猛烈な支持者であった。紀元前1世紀中頃の三人の高名な知識人―キケロー、ウァロ、そしてニギディウス―はローマ内戦でポンペイウスを支援した。カエサルはウァロに対しては情け深い処置を示すのみならず、ウァロを指名してローマ市の公共図書館を発展させることでウァロの学的偉業を記録した。キケローとウァロの両方とも宗教に関するほぼすべての著作をカエサルが独裁官の地位にあったときに書いている。だがキケローの「随分不適切で恥ずかしい」努力〔Momigliano, "Theological Efforts," pp. 200–201.〕にも関わらずニギディウスは恩赦を得ることなく追放中に没した。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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