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ニコライ・ロースラヴェツ : ミニ英和和英辞書
ニコライ・ロースラヴェツ[らヴ]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

ロース : [ろーす]
 【名詞】 1. (abbr) roast 2. roasting meat 3. sirloin 4. pork loin 5. (P), (n) (abbr) roast/roasting meat/sirloin/pork loin
: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
ラヴ : [らヴ]
 【名詞】 1. love 2. (n) love

ニコライ・ロースラヴェツ ( リダイレクト:ニコライ・ロスラヴェッツ ) : ウィキペディア日本語版
ニコライ・ロスラヴェッツ[らヴ]

ニコライ・アンドレーヴィチ・ロスラヴェッツもしくはニコラーイ・アンドレーエヴィチ・ロースラヴェツ(、ラテン文字転写: Nikolai Andreevich Roslavets1881年1月4日 ロシア帝国/チェルニゴフ県スラージNikolaj Andrejewitsch Roslawez 〕 - 1944年8月23日 ソビエト連邦/モスクワ)は、ソ連建国期の重要なモダニズム作曲家音楽理論家ロシア・アヴァンギャルドの作曲家の一人として前衛的な創作活動を行い、ソ連揺籃期において、西側の新音楽を積極的に擁護した。また、シェーンベルクとは別に、ロシアにおいて独自の十二音技法を発展させた作曲家であると見られたこともあるが、彼の作曲技法を「十二音技法」とするのは適切ではない、という指摘もあり、現在ではそのような見方は一般的ではなくなっている〔長木誠司編著『作曲の20世紀ⅰ』 音楽之友社 1992年 80、81頁参照。〕。小品を含めて数多くの室内楽曲(5つの弦楽四重奏曲、6つのヴァイオリン・ソナタ、2つのヴィオラ・ソナタ、2つのチェロ・ソナタ、5つのピアノ三重奏曲など)を遺したほか、2つのヴァイオリン協奏曲と、5つの交響詩(うち3曲は紛失)を手懸けている。1930年代以降は弾圧された。
== 生涯 ==
ロスラヴェッツによる3つの自叙伝は、互いに食い違っている。そのうち1924年に出版されたものは、「プロレタリア音楽家同盟」から攻撃されまいとして、自身の生涯をかなり脚色している。公文書の史料によると、ロスラヴェッツはドゥーシャトゥイン(Duszatyn)生まれでもなければ貧農の出自でもなかった〔Lobanova 1997, 25ff.〕。1890年代コノトプクルスク鉄道で駅員として勤務し、クルスクのアルカディ・アバザの音楽教室でヴァイオリンピアノ音楽理論和声法を学んだ〔Lobanova 1997, 25-30〕。1902年に入学許可を得てモスクワ音楽院に進み、ヴァイオリンをヤン・フジマリーに、作曲法をセルゲイ・ワシレンコに、対位法フーガ楽式論をミハイル・イッポリトフ=イワノフアレクサンドル・イリインスキーに師事。1912年バイロンの劇的な韻文『天と地』に基づく神秘劇によりメダルを得て音楽院を修了した。
1910年代においてロスラヴェッツの作品はの機関誌において発表され、数点の楽譜が未来派の美術家によって装幀された。1917年以降は、アルトゥール・ルリエーカジミール・マレーヴィチフセヴォロド・メイエルホリドらとともに、ロシアにおける「左翼芸術」の最も著名な人物の一人となった。イェレーツハルキウモスクワでヴァイオリンや作曲法の教師を務め、ハルキウ音楽学校の校長にも就任した〔Lobanova 1997, 44〕。国立出版局に職を得て、雑誌『音楽文化()』を編集し、またソ連現代音楽協会(ACM)の指導者のひとりとなった。
音楽学者としては、専門家意識を求めて、ロシアや西欧の古典音楽や新しい音楽の中でも最上の作品のために闘い、音楽イデオロギーとを同一視することの俗悪さを批判した(その一例は論文「えせプロレタリア音楽について」に披歴されている)。アーノルト・シェーンベルクの《月に憑かれたピエロ》について最初のロシア語論文を執筆したのもロスラヴェッツである〔Nikolaj Roslawez. "Pierrot lunaire" von Arnold Schönberg. Übersetzung, Einleitung (Roslawez und Schönberg) und Kommentar von Marina Lobanova. In: Dissonanz, 61/1999, S. 22-27〕。このためロスラヴェッツは、1920年代のプロレタリア音楽運動のさなかに、とりわけロシア・プロレタリア音楽同盟(RAPM)とプロコル(Prokoll, モスクワ音楽院の学生創作集団)によって、こっぴどく叩かれるに至った。ロスラヴェッツは「反革命的」で「ブルジョワ的」な芸術家であり、「プロレタリアには縁がない」ばかりか、「形式主義者」にして「」であるとされ、あまつさえ1920年代末から1930年代初頭にかけては、「トロツキスト」の「怠け者」などと呼ばれた〔Lobanova 1997, S. 60-72)〕。
1928年にモスクワのロシア革命十周年記念演奏会において、ロスラヴェッツのカンタータ《十月》が上演される〔同じ演奏会において、アレクサンドル・モソロフの作品の上演と、ディミトリー・ショスタコーヴィチの《十月革命に寄す》の初演が行われた。〕。1930年になるとロスラヴェッツは、プロレタリア音楽家同盟によって、モスクワ作家同盟が「軽音楽」を普及させて「反革命的な作品が蔓延する」のを擁護したとして非難されている。ヴィクトル・ベールィ、アレクサンドル・ダヴィデンコ、ユーリ・ケルドゥイシュ、セミョーン・コーレフ、ザーラ・レーヴィナ、ゲオルギィ・ポリャノフスキー、アレクセイ・セルゲーエフ、ボリース・シェフテルら〔彼らの多くが、ディミトリー・カバレフスキーらを指導者とする学生創作集団「プロコル」の同人であった。〕が首謀した「ロスラヴェッツ事件」のせいで最終的に公職追放の憂き目を見て、結果的に2年にわたって政治記者として職務に就くことを禁ぜられた。ロスラヴェッツは身の安全を守るために、過去の「政治的なあやまち」について大っぴらに自己批判を行なった〔Lobanova 1997, S. 72-86)〕。
1932年から1933年まで、ウズベク・ソビエト社会主義共和国の首都タシュケントの歌劇場に務め、1933年にモスクワに戻ると、教育や臨時の仕事をこなしてしがない生計を立てた。政治的な粛清の犠牲者となったロスラヴェッツは、残る人生にもはや公的な地位を得ることが出来なくなっていた。ソ連作曲家同盟に加盟することが許されず、代わりにソ連音楽基金に加入した。1938年には、「プロレタリア音楽家同盟」のかつての同人たちがそれまでにロスラヴェッツについてデマを流していたために、ロスラヴェッツに対して懲罰的な陰謀が計画されている。しかしながらロスラヴェッツは、1939年に重篤な脳卒中を患い半身不随となり、1944年に2度目の発作の後で息を引き取った〔Lobanova 1997, S. 87-95)〕。最後に出版された作品は、1942年に公表された歌曲であった〔Gojowy 1980, S. 329〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「ニコライ・ロスラヴェッツ」の詳細全文を読む

英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Nikolai Roslavets 」があります。




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