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ニコライ・ヴォロノフ : ミニ英和和英辞書
ニコライ・ヴォロノフ
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。


ニコライ・ヴォロノフ : ウィキペディア日本語版
ニコライ・ヴォロノフ
ニコライ・ニコラエヴィッチ・ヴォロノフ1899年4月23日 - 1968年2月28日)は、ソ連の軍人。砲兵総元帥。ソ連邦英雄''、1899年4月23日 - 1968年2月28日)は、ソ連の軍人。砲兵総元帥。ソ連邦英雄
== 経歴 ==
サンクトペテルブルク出身。1918年から赤軍に入隊し、第2ペトログラード砲兵課程を修了。ロシア内戦時、ユデニッチと白系ポーランド人部隊との戦闘に参加する。1919年から共産党員。1922年から砲兵中隊長、大隊長を歴任。1924年、指揮要員高等砲兵学校を卒業。1930年、M.V.フルンゼ名称軍事アカデミーを卒業し、モスクワ・プロレタリアート狙撃師団の砲兵連隊長を務める。1933年、同師団の砲兵部長。1934年、第1レニングラード砲兵学校の学校長兼政治委員。
スペイン内戦時、共和国軍の軍事顧問。1937年~1940年、赤軍砲兵部長となり、赤軍の砲兵の戦闘理論、訓練、組織機構の改善に貢献した。1939年夏、ノモンハン事件に参加し、砲兵運用の計画・統制を実施した。
1939年秋のポーランド侵攻と1940年夏のベッサラビア侵攻時、機械化された砲兵部隊の投入を指導し、長距離行軍を実行した。ソ・フィン戦争時、マンネルハイム線突破の際の砲撃の組織を指導した。1940年~1941年6月、砲兵総局副総局長。1941年6月から国土防空総局長。
独ソ戦勃発後、7月から赤軍砲兵部長兼副国防人民委員。1943年3月~1950年3月、赤軍(ソ連軍)砲兵司令官。大戦中、砲兵、対戦車戦闘の理論の立案、大砲兵部隊(師団・軍団級)の創設、最高司令官予備(РВГК)砲兵隊の発展に貢献した。また、前線におけるスタフカ代表として、レニングラード、ヴォルホフ、南西、ドン、ヴォロネジ、ブリャンスク、北西、西部、カリーニン、第3ウクライナ、第1白ロシア戦線の作戦計画立案に参与した。
1950年~1953年、砲兵科学アカデミー総裁となり、ヴォロノフの指導の下、ロケットの戦闘利用の研究が行われた。1953年~1958年、砲兵指揮アカデミー校長。1958年、ソ連国防省監察総監部。
第2期ソ連最高会議代議員。
1968年2月28日死去。遺骸は、赤の広場クレムリンの壁に葬られた。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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