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ニコラス・レイ(Nicholas Ray、本名=レイモンド・ニコラス・キンズル・ジュニア、1911年8月7日 - 1979年6月16日)は、アメリカ合衆国ウィスコンシン州出身の映画監督である。1950年代アメリカ映画の隠れた巨匠であり、ヌーヴェルヴァーグの作家たちから尊敬を受けた監督として知られる。 == 略歴 == フランク・ロイド・ライトの下で建築を学んだが、数ヶ月で決別。ニューヨークで左翼演劇活動に参加する。 太平洋戦争が始まるとOWI(戦時情報局)の仕事につき、ラジオ番組や宣伝映画などの制作を通して、エリア・カザンやジョン・ハウスマンなどの映画人と交流するようになり、ハウスマンのすすめでRKOに就職、1947年にデビュー作『夜の人々』を監督するが、ハワード・ヒューズがRKOを買収したために、このデビュー作は1949年まで公開が延期された。 RKOがヒューズの支配下に入ったのちも同社に留まり、未完成映画の追加撮影や共同監督にも立ち会わされることになるが、ヒューズの政治力によって1940年代末のハリウッドに吹き荒れた赤狩りのブラックリストからは逃れることとなる。 1950年代にフリーになると、主題歌が世界的なヒットとなった西部劇『大砂塵』や、ジェームス・ディーン主演の『理由なき反抗』などの名作・話題作を作るが、アルコール依存症やそれに伴う奇行、体調不良に悩まされるようになる。環境問題を描いた異色西部劇『エヴァグレイズを渡る風』では完成まで立ち会うことを許されず、『暗黒街の女』を最後にハリウッドを離れ、ヨーロッパで活動するようになる。 1960年代に入ると、ヨーロッパ資本による大作の監督を任されるようになるが、『北京の55日』の撮影時に心臓発作を起こして、商業監督からの引退を余儀なくされる。 1972年にニューヨーク大学の講師に就任。学生たちとビデオや16ミリフィルムなどで映画を制作する。1978年、レイを私淑するヴィム・ヴェンダース監督と共同で『ニックス・ムーヴィー水上の稲妻』の撮影を開始するが、完成直後に肺癌で死亡する。映画の中にはレイが癌で苦しむ姿が克明に記録されて物議をかもした。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ニコラス・レイ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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