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ニコライ・ボルコフ(Nikolai Volkoff)のリングネームで知られるヨシップ・ペルゾビッチ(Josip Nikolai Peruzović、1947年10月14日 - )は、クロアチア出身の元プロレスラー。北米に移住後、ロシア系ギミックのパワーファイターとして活躍した。 日本では「ニコリ・ボルコフ」と表記されていたが、より原音に近い発音は「ニコライ」であり、本項の記述もそれに準ずる。 == 来歴 == ユーゴスラビア併合後のクロアチア共和国の出身で、父親はイタリア系クロアチア人、母親はロシア人である。ユーゴではウエイトリフティングの選手として活躍し、オーストリアで行われたトーナメントに参加した際にカナダへ越境。 カナダではカルガリーのスタンピード・レスリングでスチュ・ハートのトレーニングを受け、同地区にいたジート・モンゴルことニュートン・タットリーのパートナーとしてデビュー〔。モンゴル人ギミックのベポ・モンゴル(''Bepo Mongol'')を名乗り、ジートとの悪役タッグチーム「ザ・モンゴルズ」を結成してアメリカに進出した。 1970年よりWWWFに進出し、6月15日にニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンにてビクター・リベラ&トニー・マリノを破り、WWF世界タッグ王座の前身であるWWWFインターナショナル・タッグ王座を獲得。1972年7月にはザ・モンゴルズとして日本プロレスに初来日し、7月30日に福岡スポーツセンターにて坂口征二のUNヘビー級王座に挑戦している。 その後、ジートとのタッグを解消してシングルプレイヤーに転向〔ベポ(ペルゾビッチ)の後任には、後にマスクド・スーパースターやデモリッション・アックスとして活躍するビル・イーディーが「ボロ・モンゴル」を名乗って加入した。〕。1974年、フレッド・ブラッシーをマネージャーに迎え、ロシア人ギミックの大型ヒール「ニコライ・ボルコフ」に変身して再度WWWFに登場。3月4日と4月1日のMSG定期戦において、ブルーノ・サンマルチノのWWWF世界ヘビー級王座に連続挑戦した〔。 同年8月にはブラッシーと共に新日本プロレスに来日。タッグマッチでアントニオ猪木からフォール勝ちを収め、9月10日には愛知県体育館にてシーク・オブ・シークス・オブ・バグダッドと組み、猪木&坂口征二が保持していた北米タッグ王座に挑戦した。以降も新日本プロレスに度々参戦し、1977年3月開幕の『第4回ワールド・リーグ戦』ではマスクド・スーパースターとの新旧モンゴルズ対決も実現。1978年4月開幕の『第1回MSGシリーズ』では、予選トーナメントで星野勘太郎と長州力を下して決勝リーグに進出、総当たり戦でアンドレ・ザ・ジャイアントとも対戦した。 その間の1975年は、ボリス・ブレジニコフ(''Boris Breznikoff'')のリングネームでAWAに登場。ボビー・ヒーナンをマネージャーに迎え、クラッシャー・リソワスキー、ラリー・ヘニング、ビル・ロビンソン、イワン・プトスキーらと抗争、ドイツ系ヒールのバロン・フォン・ラシクやホースト・ホフマンとも共闘した。同年下期からはリングネームを戻し、ジム・バーネットが主宰していたNWA圏のジョージア・チャンピオンシップ・レスリングに参戦、9月23日にマイク・マッコードを破りNWAジョージア・ヘビー級王座を獲得した。10日後の10月3日にミスター・レスリング2号に敗れてタイトルを失うも〔、同月25日にはブルート・バーナードと組んでディック・スレーター&ボブ・オートン・ジュニアからNWAメイコン・タッグ王座を奪取している。 1976年6月よりWWWFに戻り、10月25日のMSG定期戦にて王者ブルーノ・サンマルチノに再挑戦。以降、1970年代後半はWWWFに定着し、チーフ・ジェイ・ストロンボー&ビリー・ホワイト・ウルフが保持していたWWWF世界タッグ王座にも、トーア・カマタやスタン・スタージャックと組んで再三挑戦。1979年4月17日にはペンシルベニア州アレンタウンにて、アメリカ遠征に来ていたアントニオ猪木のNWFヘビー級王座にも挑戦している。 西側諸国のモスクワオリンピックボイコット問題で米ソ冷戦が最高潮に達した1980年には、エディ・グラハム主宰のチャンピオンシップ・レスリング・フロム・フロリダにてイワン・コロフとロシア人タッグを結成。ジャック・ブリスコとジェリー・ブリスコの兄弟チームからNWAフロリダ・タッグ王座を奪取して大ヒールとなる。アレックス・スミルノフやバロン・フォン・ラシク、ハンス・シュローダーとも反米ユニットを結成し、ダスティ・ローデス、ディック・マードック、バグジー・マグロー、マニー・フェルナンデス、ボボ・ブラジル、ブリスコ・ブラザーズらと抗争を展開した。 1981年の下期からは、フロリダでも共闘していたロード・アルフレッド・ヘイズをマネージャーに、ロシア系ギミックの先達クリス・マルコフとのコンビでジム・クロケット・ジュニア主宰のミッドアトランティック・チャンピオンシップ・レスリングに参戦。6月27日にノースカロライナ州シャーロットにてデューイ・ロバートソン&ジョニー・ウィーバーを破り、NWAミッドアトランティック・タッグ王座を獲得した。 1982年1月には全日本プロレスの『新春ジャイアント・シリーズ』に来日。2月3日に横浜文化体育館にて、ニック・ボックウィンクルと組んでジャイアント馬場&ジャンボ鶴田のインターナショナル・タッグ王座に挑戦した。同シリーズには、前年末に新日本から全日本に引き抜かれたスタン・ハンセンも参戦しており、1976年に共にWWWF圏をサーキットしたことのあるボルコフがハンセンのパートナーを務めた。以降は日本での活動の場を全日本に移し、1982年10月9日には高知県民体育館にて、同じくWWWF時代の盟友であるブルーザー・ブロディとのコンビでインタータッグに再挑戦〔。1983年5月19日には赤穂市にて鶴田のUNヘビー級王座に挑戦し、敗れはしたものの鶴田を片腕でネック・ハンギング・ツリーに吊るし上げるなど、桁外れのパワー殺法を披露した〔『全日本プロレス 来日外国人選手 PERFECTカタログ』P44(2002年、日本スポーツ出版社)〕。 帰米後はビル・ワットが主宰していたMSWAに登場。クラッシャー・クルスチェフとのタッグでルイジアナ、ミシシッピ、オクラホマなどミッドサウス地区一帯をサーキットし、テリー・テイラー、ジャンクヤード・ドッグ、ジム・ドゥガン、スティーブ・ウィリアムス、ロックンロール・エクスプレスなどと対戦した。 1984年下期、ビンス・マクマホン・ジュニアの新体制下で全米進出を行っていたWWFと再契約。フレッド・ブラッシーを再びマネージャーに迎え、ハルク・ホーガンのWWF世界ヘビー級王座に挑戦する一方、サージェント・スローターとの米ソ抗争を開始。スローターのWWF離脱後はアイアン・シークとの反米コンビでタッグ戦線に進出、1985年3月31日のレッスルマニア第1回大会でバリー・ウインダムとマイク・ロトンドのUSエクスプレスを破り、WWF世界タッグ王座を獲得した。その後も長きに渡ってWWFを主戦場とし、リング上でソビエト連邦国歌を斉唱するなどしてブーイングを浴びた〔。 シークがドラッグ問題で解雇されてからはボリス・ズーコフを相棒にザ・ボルシェビクス(''The Bolsheviks'')なる共産タッグを結成。しかし1990年、ソビエト連邦の崩壊による冷戦終結を機にベビーフェイスに転向する。一転して親米派になり、愛国者キャラクターとして抜群の会場人気を持つジム・ドゥガンのパートナーを務めた。同年、湾岸戦争の勃発によりヒールとしてWWFに復帰したサージェント・スローターとの善悪逆転抗争もスタートさせている。1992年に一時WWFを離れてインディー団体に上がっていたが、1994年に「ロシア難民」のギミックでWWFに復帰。テッド・デビアスに金で買われた「所有物」として、デビアス率いる「ミリオンダラー・コーポレーション」に組み入れられるが、すでに体力的に全盛期を過ぎていたこともあり、短期間でフェードアウトしていった。 その後は2001年4月1日のレッスルマニアX-Sevenで行われたギミック・バトルロイヤルに出場。2005年には長年に渡る功績をたたえ、WWE殿堂に迎えられた。近年もスペシャルゲストとして、WWEをはじめ各地のインディー団体に顔を見せている。2010年11月15日には、"Old School edition" と銘打って行われたスペシャル版の『Raw』に出演、ウラジミール・コズロフと共にリング上でソビエト連邦国歌を斉唱した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ニコライ・ボルコフ」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Nikolai Volkoff 」があります。 スポンサード リンク
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