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===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ ー : [ちょうおん] (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
ニザームルムルクまたはニザーム・アル=ムルク(نظام الملك، ابو علي الحسن الطوسي, Niẓām al-Mulk Abū ‘Alī al-Ḥasan al-Ṭūsī、1017年 - 1092年)は、セルジューク朝の政治家、学者。君主マリク・シャーを支えてセルジューク朝全盛期を現出したイラン人宰相である。 == 生涯 == ホラーサーン地方の都市トゥース近くの町で、地主の息子として生まれた(生年には1018年説もある)。本名は、ハサン・ブン・アリー・トゥースィー〔「トゥース出身の、アリーの息子ハサン」という意味となる。〕。ニザームルムルク(ニザーム・アル=ムルク نظام الملك Niẓām al-Mulk)とは「王国の秩序」の意味で、君主よりあたえられた称号であった。はじめはガズナ朝に仕えたが、1040年にでセルジューク朝に敗れ、ガズナ朝はセルジューク朝に臣従していた。 セルジューク朝第2代スルタンのアルプ・アルスラーンや第3代スルタンのマリク・シャー1世に傅役(アタベク)〔アタベク(アター・ベク)はセルジューク朝に始まる独特の制度で、スルタンの子弟が幼少のおり、寝食をともにして1対1で教育や後見にあたる養育制度。清水(1995)p.127-128〕として、また宰相として仕え、彼らをよく補佐した。ニザームは政治手腕に優れ、行政組織や軍隊、イクター制の整備をおこない、宗教政策や教育政策に尽力した。特に1067年には彼の名にちなんで、バグダードにニザーミーヤ学院を設立した〔ニザーミーヤ学院は、バグダードのほかニーシャープールやエスファハーン、レイなどにも建てられた。〕。また、宰相とはいえ、実際に軍を率いて遠征に参加することもあった。イラン南部やアルメニアにも遠征しており、1071年の東ローマ帝国とのマラーズギルトの戦い(マンツィケルトの戦い)にもアルプ・アルスラーンの軍に参加している。 1072年に即位したマリク・シャー1世は、1074年、王都(ダール・アル=ムルク)をエスファハーンに定め、同年天文台を建設し、さらにウマル・ハイヤームに命じてジャラーリー暦という新暦(太陽暦)をつくらせた。1086年から1087年にかけてはマリク・シャーとニザームによって金曜モスクの南ドームが建てられた。これは、高さ20メートル、直径10メートルで、当時のイスラーム世界最大規模のドームであった。 こうしてセルジューク朝はマリクとニザームの両人体制がうまく機能したこともあって、遊牧国家の面影をのこす国から整備された帝国となり、2人が相次いで死去する1092年ころには最大版図を実現した。 ニザームは、政治家としてだけではなく、文化人としても一級であり、『政治の書』(スィヤーサト・ナーメ سياسة نامه Siyaāsat Nāma )〔『統治の書』とも。君主に統治理念を説いたものであるが、ペルシャ語散文学の傑作としても名高い。清水(1995)p.126〕を記している。 しかし1092年、マリクの妃に些細なことから恨みを買って暗殺されてしまった。マリク・シャーの後継者として、ニザームはマリク・シャーの長男バルキヤールクを推したが、妃は自分の実子であるマフムードを推した(バルキヤールクとマフムードは異母兄弟)。この問題では、ニザームを敵対視していた大臣タージュルムルクが妃側につくなど、宮廷内に対立を引き起こした。一説によればこれはシーア派過激派のニザール派(暗殺教団)によるもので、彼がスンナ派の権威回復に努めシーア派を弾圧したことへの報復ともいわれる。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ニザームルムルク」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Nizam al-Mulk 」があります。 スポンサード リンク
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