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ニザール派(ペルシア語 نزاریان Nezāriyān)は、イスラム教のシーア派・イスマーイール派の分派。1094年、ファーティマ朝のカリフ=イマーム位をめぐってイスマーイール派は二派に分裂したが、そのうちの一方がニザール派(もう一方はムスタアリー派)である。史料や現在の報道、学術的著作でも単にイスマーイール派としてムスタアリー派と一括して扱われることが多い。 ニザール派はハサニ・サッバーフの指導するイラン方面のイスマーイール派で支持を獲得。11世紀末から13世紀半ばまでシリア地方からホラーサーンに点在する城砦およびその周辺領域を保持し、イラン高原のに築城されたを中心に独立政権を打ち立てた。時に敵対するセルジューク朝や十字軍の要人を暗殺するという手段を用いたことから暗殺教団の別称が生まれ、のちに大麻吸引などと結びつけられて伝説化した(これについては暗殺教団を参照)。 13世紀半ばのモンゴル帝国軍の到来によってほとんどの城砦を失うが、広い地域に散在するコミュニティは存続し、現在ではインド、パキスタン、シリア、アフガニスタン・タジキスタン・ザンジバルなど東アフリカおよび欧米に信徒を擁する。特にインド・パキスタン方面のホージャー派のニザール派コミュニティおよびアフガニスタン・タジキスタンのニザール派コミュニティの指導者アーガー・ハーンは、絶大な財力を背景に同地域に社会的影響力を誇る。 ==歴史== ===ニザール派の成立=== 1095年、イスマーイール派第18代イマーム、すなわちファーティマ朝第8代カリフ・の没後、イスマーイール派はそのカリフ=イマーム位を巡って二派に分裂した。当初は兄が継承することとなっていたが、当時のファーティマ朝において全権を握る宰相は、妹婿でニザールの弟アフマドをとして登極させた。ニザールはこれに反発してアレクサンドリアで反乱を起こした。このときニザールを支持した人びとを後代ニザーリーヤ、すなわちニザール派と呼ぶ。反乱自体は早期に鎮圧され、ニザールもカイロに幽閉された後、1098年までには没してしまった。 当時のイスマーイール派は本拠地エジプトにおけるファーティマ朝の衰勢とは裏腹に、中央アジア、イラン、イエメン、シリアなどに教線をのばしていた。これら諸地域の大部分は分裂に際して、ファーティマ朝のムスタアリー派をとったが、イランとイラクおよびごく一部のシリアのイスマーイール派はニザールのイマーム位継承を支持した。彼らはファーティマ朝およびカイロのダアワとの絶縁を選び、独自のダアワを設立した。これをもってニザール派の成立とする。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ニザール派」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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