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ニシノライデン : ミニ英和和英辞書
ニシノライデン
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。


ニシノライデン : ウィキペディア日本語版
ニシノライデン

ニシノライデン日本競走馬種牡馬である。中央競馬重賞 (GII) を4勝した。
斜行癖があることで知られ、朝日チャレンジカップの1位失格や天皇賞・春の2位失格など延べ6回の処分歴があり、「降着制度の産みの親」とも言われる(後述)。
※戦績の馬齢は旧表記(数え年)とする。
== 戦績 ==
4歳となった1984年2月京都競馬場でデビュー。当初は伊藤清章〔現姓上野、当時は調教師伊藤修司調教師の娘婿。〕が騎手をつとめた。デビュー戦を勝った後5戦3勝でクラシック路線に乗るが、三冠馬シンボリルドルフらの壁は厚く、皐月賞は6着、日本ダービーでは5着に終わった。秋に神戸新聞杯〔当時はGIII。〕2着の後、菊花賞トライアルの京都新聞杯で重賞初制覇。菊花賞では打倒ルドルフの一番手として2番人気に推された。直線早目に先頭に立って、堂々とシンボリルドルフを負かしにいく競馬をしたが3着に終わった。このレースを実況していた杉本清が、ニシノライデンのレースぶりをのちに著書〔「あなたのそして私の夢が走っています」(双葉社)〕で褒めている。
5歳初戦の鳴尾記念(当時は3月に開催された芝2500mのGII)で重賞2勝目。大阪杯を挟んで天皇賞・春に出走するがシンボリルドルフの4着に終わった。そして秋初戦の朝日チャレンジカップでは1位に入線するが、斜行して失格となった。伊藤がこのレースでの処分で騎乗停止となり、次の京都大賞典では田原成貴が初騎乗し、ヤマノシラギクの2着。しかし天皇賞・秋では12着に敗れ、再び伊藤が騎乗すると阪神大賞典(当時は12月開催)で重賞3勝目をあげ、有馬記念ではシンボリルドルフ、ミホシンザンに次ぐ3着。
6歳初戦の日経新春杯で4着に敗れると故障し、1年2ヶ月の休養を経て7歳で復帰。復帰初戦の阪神大賞典〔鳴尾記念と入れ替わる形で3月開催。〕は8着に終わったが、再び田原に乗り替わった大阪杯で重賞4勝目を飾る。
そして、天皇賞・春では圧倒的1番人気のミホシンザンに次ぐ2番人気に支持された。レースでは最後の直線で急に外側に斜行し、外を走っていたアサヒエンペラーの進路を妨害。ゴール前ではアサヒエンペラーと内・外が入れ替わっているほどの斜行で、アサヒエンペラーは騎手蛯沢誠治が立ち上がるほどの不利を受けた。この間に内を突いたミホシンザンとニシノライデンがほぼ同時にゴールイン。長い写真判定と審議が行われ、まずは1位ミホシンザン、ハナ差2位にニシノライデンと表示されたが、さらに長引いた審議の末、ニシノライデンは失格処分となった。
GI級のレースで2着までに入線した馬が審議の結果失格処分となったのは日本中央競馬会史上初であった。
続く宝塚記念では、失格処分の同情票も集めたかGIレースで初めて1番人気に支持されたが、同期のスズパレードの3着に敗れた。
このレースを最後に故障し、現役を引退した。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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