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ニック・ラロッカ : ミニ英和和英辞書
ニック・ラロッカ
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。


ニック・ラロッカ : ウィキペディア日本語版
ニック・ラロッカ

ドミニク・ジェームス"ニック"ラロッカDominic James "Nick" LaRocca1889年4月11日 - 1961年2月22日)は、アメリカ合衆国ジャズ創成期のコルネット奏者・トランペッターオリジナル・ディキシーランド・ジャズ・バンドの首領。
最も録音されたジャズ古典曲『タイガー・ラグ』を作曲し、録音された最初のジャズ・バンドと一般に目されるバンドをひきい、最初のジャズ録音物『Livery Stable Blues』を1917年に発表した。〔ルイ・アームストロングは1935年の最初の自伝で「僕がウェイフ少年院でトランペットを習う4年前、1909年に最初の偉大なジャズオーケストラがドミニク・ジェームズ・ラロッカというコルネット奏者によってニューオリンズで結成された。みんな「ニック」ラロッカと呼んでいた。彼の楽団はたったの5人組だった。でも彼らはそれまでで最高にホットな5人組だった。ラロッカはこのバンドを「ヂ・オールド・ディキシーランド・ジャズバンド」と名付けた。彼はまったく新しい楽器編成を行い、古い曲を新しく響かせることになった。彼がコルネットで、ラリーシールズがクラリネット、エディーエドワードがトロンボーン、レガスがピアノ、スバルバーロがドラムスだ。彼らはみんな有名になり、ディキシーランドバンドはいまは音楽史に入っている。彼らが作り、当時世界中に新しいジャズ音楽をとどけた偉大なレコードの一部には『タイガーラグ』『レイジーリヴァー』『クラリネットマーマレード』『オストリッチ・ウォーク』『センセーション』『リヴァリー・ステイブル・ブルース』『とどぅりんブルース』
なんかがある。
ラロッカは数年前に引退してニューオーリンズに戻ったが、シンコペートされた音楽の偉大な開拓者としての彼の名声は永く永く、たぶんアメリカ音楽が続く限り残るだろう。
 ディキシーランドバンドはすべてを変えた。すぐにラロッカは一晩に1000ルくらい稼ぐようになり、全ニューヨークは「レイジーダディー」「センセーション」「トドゥリンブルース」なんかに熱中していた。  
連中は「シュガー」と書かれた缶をダンスフロアの真ん中、彼らの前におき、人々が音楽に夢中でダンスすると彼らはその砂糖缶にお金を大量に放り込んだ。ディキシーランドの新しい音楽は当時そういうふうに人々を興奮させていた。
ジャズは「東に行き」成功した。そしてラロッカはそこで成功し、初めてジャズを流行らせた。それは他の人々にとって簡単な道を用意した。1年かそこらするとディキシーランドバンドはロンドンに行き、同じ成功を収めた。ロンドンは彼らを1年以上も引き留めた。
彼らが東部と海外で大勝利すると、彼らは二度とニューオーリンズに帰ってこなかった。けっきょく、この偉大な共同作業は1992年に終わった。全員が、夢見た以上の金を儲けていた。たぶん彼らはそれ以上は欲しくなかったんだろう。どっちみち彼らは解散した。ラリーシールズは僕がニューオリンズを去る前に帰郷していた。彼は自分の金をビジネスに費やした。のちに、さっきも触れたが、ラロッカも帰郷した。
ジャズとスイングの創成期に有名になった人のうち音楽の訓練を受けた人はほとんどいなかった。彼らは生まれついてのミュージシャンだった。彼らは自分の音楽を感じ、耳と記憶で演奏した。あの偉大なディキシーランド・ファイブはそういう風だった。彼らのだれも楽譜を読めなかった。でも彼らは実際ミュージシャンだったし、世界がそれを認めた。
1909年くらいにディキシーランドがホットな新しい音楽を録音し出すと、プレーヤーのほとんどがキャバレーでそれを真似しはじめ、すぐにニューオーリンズはそれ一色になった。」と書いた。〕
==成功まで==
ルイジアナ州ニューオーリンズに貧乏なシチリア移民の息子として生まれる。父はサラパルータ村のジローラモ・ラロッカ、母はポジオレアーレ村のヴィタ・デ・ニーナ。父は立派な職業についてほしいと思ったが、幼いニックは街のブラバンに夢中で、ひそかにコルネットを独学した。はじめは電気技師として働き、演奏は副職だった。
1910~1916年はPapa Jack Laineのバンドの構成員だった。巨匠級のプレーヤーではなかったが、強いくちびるでソリッドなソロ演奏をしたので大規模なパレードに参加し、一日に何軒もギグを掛け持ちしていた。
1916年、Johnny Steinのバンドになんとか入れてもらって、当時のあこがれの大都市シカゴで演奏することになる。このバンドがオリジナル・ディキシーランド・ジャズ・バンドとなり、歴史上初の商業的ジャズ録音をニューヨーク1917年に行いヒットし彼らはセレブとなった。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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