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ニホンピローエースは、1960年代後半に活躍した日本の競走馬。年齢表記は旧呼称とする。尚、すべてのレースに田所稔が騎乗した。尾花栗毛の逃げ馬と形容されていた〔サラブレッド101頭の死に方2 p46〕。 == 経歴 == === 現役時代 === 1963年3月25日、北海道浦河郡浦河町の辻牧場で誕生。日本ピローブロック製造のオーナー・小林保の所有馬となり。1965年、京都競馬場の小川佐助厩舎へ入厩する。 1965年10月23日の京都競馬場での3歳新馬戦(芝 1,100m)に出走、1分5秒06のレコードタイムで2着のリュウファーロスに1.5秒もの差をつけての圧勝であった。2戦目の条件特別戦でも再びリュウファーロスに勝利し、3戦目には阪神競馬場の重賞競走である阪神3歳ステークス(芝 1,600m)に出走、ここでもリュウファーロス、アポオンワードを下して重賞初制覇を果たす。尚、ニホンピローエースはこの阪神3歳ステークスの勝利が評価されて1965年度啓衆社賞最優秀3歳牡馬に選出された。 1966年、4歳になると正月競馬の平場オープン競走で勝ち星を上げ、クラシックレースに挑むべく東上、2月27日の弥生賞(東京競馬場、芝 1,600m)で1番人気に支持されるがタマシユウホウの前に2着、スプリングステークス(中山競馬場、芝 1,800m)ではシヨウグン、ナスノコトブキの後塵を拝して4着に敗れた。だが4月17日の皐月賞(中山 芝 2,000m)ではスタートダッシュが決まりハナに立つと道中澱みなく快走、第4コーナーを回って最後の直線でもスピードは衰えず、1番人気シヨウグンの追撃も抑えて1着となりタイトルを手にした。しかし皐月賞の後、NHK杯、東京優駿と人気になりながら5着、20着と敗れ、秋の京都杯、菊花賞でもいいところなく17着に敗れ去った。 1967年、5歳となると、平場オープン競走で2勝した後、5月21日の阪急杯(阪神競馬場、芝 1,900m)では1分54秒8のレコードタイムで勝利し、皐月賞以来の重賞勝ちを収めた。その後鳴尾記念2着と調子を取り戻したかに見えたが、8月の函館記念(函館競馬場)で直前に出走を取消して以後は休養を余儀なくされた。 1968年1月に京都、4月に阪神の平場オープン競走で2着、1着となり、4月29日の天皇賞(春、京都)では好位先行のレース運びを見せ、第4コーナーで後ろに下がるも直線で粘って4着に入線した。そしてこのレースがニホンピローエースの現役最後のレースとなった。現役時代は1,600m以下のレースで6戦5勝と中距離競走に強い馬でもあった〔ニホンピローエース 優駿達の蹄跡 - 引退競走馬名鑑〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ニホンピローエース」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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