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ガアファル・ムハンマド・アン=ヌメイリー( Gaafar Muhammad an-Numeiry、1930年1月1日 - 2009年5月30日)はスーダンの軍人、政治家。同国の革命評議会議長、大統領(第3代)などを歴任した。 == 経歴 == スーダンの首都であるハルツーム近郊オムドゥルマンのワド・ヌバウィ出身。父は郵便職員で曾祖父はドンゴラのワド・ヌメイリーの族長である。 1952年にスーダン軍事大学を卒業し、そこで同年にエジプトで権力を握るガマール・アブドゥン=ナーセルの自由将校団の影響を受けた。1966年ヌメイリはカンザス州のアメリカ陸軍のレヴンワース基地のアメリカ陸軍指揮幕僚大学を卒業した。3年後ヌメイリーはイスマーイール・アル=アズハーリーの文民政権を倒す軍事クーデタを指揮し、権力を握った。ヌメイリーは社会主義かつ汎アラブ主義的改革を行った。1970年にはサーディク・アル=マフディーによるクーデターを防ぎ、1971年7月18日から22日の短期間アッタ少佐率いる共産主義者に権力を奪われたが回復して閣僚のジョセフ・ガランらスーダン共産党員を処刑〔Voll, John Obert; Fluehr-Lobban, Carolyn; Lobban, Richard (1992). Historical dictionary of the Sudan. Scarecrow Press. p. 204. ISBN 9780810825475.〕。9月15日の大統領選挙に98.6%の得票で当選すると10月10日に大統領に就任し、10月14日革命評議会を解散した。1972年にはアディスアベバ合意で17年間続いた第一次スーダン内戦を終結させた。また、キャンプ・デービッド合意を支持していたことからムアンマル・アル=カッザーフィーのリビアとの軋轢があった〔Libya - Government 〕。 1981年にイスラーム主義の反対派の圧力を受け政策を転換した。1983年国政にシャリーア(イスラム法)を導入し、アディスアベバ合意に反して南部スーダン政府も解散させたことなどで南部の黒人(主にアニミズム、一部キリスト教徒)の反感を買い、第二次内戦を招いた。1985年にヌメイリはアズハリ政権時代に宗教的扇動者として訴えられ、背教者とされる判決を受けていたイスラム改革主義者のマフムード・ムハンマド・ターハーの処刑を認めた。4月6日ヌメイリーはスワル・アル=ダハーブ将軍によるクーデターで失脚し、政治生命を絶たれエジプトに亡命、カイロのヘリオポリスで過ごした。政権は翌年選挙によりかつてクーデターを首謀したイスラーム主義者のサーディク・アル=マフディーに移った。 1999年5月にスーダンへ戻り、熱烈な歓迎を受け、彼の批判者を驚かせた。国民会議を支持し大統領選挙で9.6%の票を獲得した。 2009年5月30日に死去したことがスーダン政府当局者によって明らかにされた。満79歳没。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「モハメド・アン=ヌメイリ」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Gaafar Nimeiry 」があります。 スポンサード リンク
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