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ニューヨーク・ニュージャージー方面作戦()は、アメリカ独立戦争中の1776年から1777年の冬にかけて、ニューヨーク市とニュージャージーの支配を巡って、ウィリアム・ハウ将軍指揮するイギリス軍とジョージ・ワシントン将軍指揮する大陸軍の間で行われた一連の戦闘である。ハウはワシントン軍をニューヨーク市から追い出すことに成功したが、ニュージャージーまで手を伸ばし過ぎたがために、1777年1月にはニューヨーク市近くに幾つかの前進基地を保持するだけで、活動できる作戦シーズンを終わらせることになった。イギリス軍は戦争の残り期間ニューヨーク市を保持し、他の標的に対する遠征軍の基地として使い続けた。 ハウは1776年3月にボストン市を保持することに失敗した後、撤退した軍隊にイギリス本国からの援軍と、さらに神聖ローマ帝国の幾つかの侯国からドイツ人傭兵を加えて軍隊を集結させた。まず7月3日にイギリス軍がスタテンアイランドに無抵抗で上陸したことに始まり、8月には再度無抵抗でロングアイランドに上陸し、ワシントン軍をブルックリンやローワーマンハッタンから北のホワイトプレインズに追い出した。この時点でハウはマンハッタンに戻り、マンハッタン島の北部にワシントンが残していった部隊を捕獲した。 ワシントン軍はボストン包囲戦に参加した部隊の他に遠くバージニアなどの植民地からの連隊も加えていた。その軍隊の大半はハドソン川を越えてニュージャージーに渡り、さらにデラウェア川を越えてペンシルベニアまで撤退したが、兵士の徴兵期限切れ、脱走および士気の低下もあって勢力が減退していた。ハウは12月に入ってその軍隊に冬季宿営入りを命令し、ニューヨーク市からニュージャージーのバーリントンまで一連の前進基地を構築させた。1776年暮れ、ワシントンは軍隊の士気を上げるために凍ったデラウェア川を渡って、ニュージャージーのトレントンにあったイギリス軍守備隊を急襲して成功し、ハウの前進基地の連なりをニューブランズウィックとニューヨークに近い海岸線まで押し戻した。ワシントン軍はニュージャージーのモリスタウンで冬季宿営を張った。その冬の残りは、イギリス軍がまぐさと食料を求めていたので、たびたび小競り合いを繰り返した。 イギリス軍は1783年にアメリカ独立戦争が終わるまでニューヨーク市とその周辺の領地を支配し続け、北アメリカの他地域に対する作戦の基地として使った。1777年、ハウはフィラデルフィアを占領するための作戦を開始し、ニューヨーク市地域の指揮はヘンリー・クリントン将軍に任せた。一方ジョン・バーゴイン将軍がケベックからハドソン川流域の支配を目指して南下し、サラトガで挫折した。戦争の残り期間、ニュージャージーの北部と海岸部はニューヨーク市を占領するイギリス軍からの小競り合いや襲撃の舞台となり続けた == 背景 == 1775年4月にアメリカ独立戦争が勃発してから間もなく、イギリス軍と植民地軍はバンカーヒルの戦いで激突した。その戦いでイギリス軍が勝利したものの、払った代償も大きかったという知らせがロンドンにもたらされた時、ウィリアム・ハウ将軍と北アメリカ植民地に対する担当官であるジョージ・ジャーメイン卿は、イギリス帝国中から集めた部隊に、神聖ローマ帝国のドイツ諸侯国から雇用した部隊を併せて、ニューヨーク市に対して「断固たる行動」をとるべきことに決めた〔Fischer, pp. 76–78〕。 第二次大陸会議から大陸軍の総司令官に指名されたばかりのジョージ・ワシントン将軍は、ニューヨーク市が「絶対的に重要な地点」であると他の者に繰り返し語っており〔Shecter, p. 60〕、ボストン包囲戦の指揮を執るためにボストンに向かう途中、ニューヨーク市に立ち寄ったときにそこで民兵隊の組織化を始めていた〔Shecter, p. 61〕。1776年1月、ワシントンはチャールズ・リー将軍に部隊を立ち上げニューヨーク防衛のための指揮を執るよう命じた〔Schecter, p. 67〕。1776年3月、ワシントンがボストン市の南にある高地を要塞化してイギリス軍に脅しを掛けた後、イギリス軍はボストンを明け渡した。リーがこの知らせを聞いた時は、ニューヨークの防御を固めているときだった。ワシントンはハウがボストンからニューヨーク市に直接艦船で向かうことを心配し、ボストンから陸路部隊を急行させた。その中には4月半ばにワシントンがニューヨーク市に到着するまで部隊を指揮していたイズラエル・パットナム将軍も含まれていた〔Schecter, pp. 67–90〕。4月末、ワシントンはジョン・サリバン将軍に6個連隊をつけて経過が思わしくないカナダ侵攻作戦を援護するための遠征軍を派遣した〔Johnston, p. 63〕。 ハウ将軍はニューヨーク市に直接向かわずにノバスコシアのハリファックスに引いて、ヨーロッパ中の港から船出しニューヨークに向かっていたイギリス軍を乗せた輸送船団がハリファックスに集まり始める中で軍隊を再編成した。6月、ハウは全ての輸送船が到着する前に、ハリファックスに集結した9,000名の兵士と共にニューヨーク市に向けて出港した〔Lengel, p. 135〕。主にヘッセン=カッセルから雇用したドイツ兵とヘンリー・クリントンが指揮するイギリス兵の部隊は両カロライナに遠征を行った後にニューヨークでハウの艦隊と落ち合うこととされた。ハウの兄であるイギリス海軍のリチャード・ハウ提督はウィリアム・ハウ将軍が出発した後に輸送船団を率いてハリファックスに到着し、即座に後を追った〔。 ハウ将軍の艦隊がニューヨークの外港に到着すると、7月2日には防御の施されていないスタテン島とロングアイランドの間のナローズを航行し、その日に無抵抗でスタテン島への上陸を開始した。ワシントンは捉えた捕虜からハウが10,000名の部隊を上陸させたが、さらに15,000名の到着を待っていることを知った〔Schecter, pp. 100–103〕。ワシントン軍の実効勢力はイギリス軍が揃った場合の勢力より小さい19,000名であり、イギリス軍とその作戦についてしっかりとした情報に不足しており、ハウがニューヨーク地域のどこを襲ってくるかも判断しかねていた。結果的に大陸軍はロングアイランドとマンハッタンおよび大陸本土の防衛陣地に軍を分けてしまった〔Fischer, pp. 89,381〕。さらにはニュージャージー北部に「フライング・キャンプ」までも設けた。この部隊はハドソン川のニュージャージー川岸でならばどこでも大陸軍の作戦を支援するように意図された予備隊だった〔Lundin, p. 109〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ニューヨーク・ニュージャージー方面作戦」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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