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ニューラテンクォーター(New Latin Quarter)とはかつて日本に存在したナイトクラブである。後述のように地番は永田町だが外堀通りを挟み赤坂となるため「赤坂のニューラテンクォーター」と呼ばれた。ステージショーを主体としたホステス・クラブの先駆けで、海外の有名歌手を次々と出演させ、伝説的な社交場となった。 == 概要 == 赤坂見附交差点および赤坂見附駅至近である、外堀通りと日比谷高校の間に存在したホテルニュージャパン地下に1959年12月14日、九州社交界の大立者で「中州のキャバレー王」と呼ばれた山本観光株式会社の山本平八郎が社長として、敷地面積660坪、卓数300、従業員は200人以上を抱える国際的な社交場として開店。会長に吉田彦太郎、副社長に長男・山本信太郎、山本平八郎社長夫人・浅子がママで経営にあたった。店名は永田町2-29に1953年11月に営業開始し1956年9月6日焼失した米軍兵の慰安用ナイトクラブ「ラテンクォーター」跡地に建てられたためつけられたと、ニューラテンクォーター元営業部長の諸岡寛司(1935年 - )は証言している〔諸岡寛司『赤坂ナイトクラブの光と影「ニューラテンクォーター」物語』(講談社、2003年)ISBN 4062117371〕。ラテンクォーターは、カルチェ・ラタンの英語名である。「ラテンクォーター」の前にあった二・二六事件のさい反乱軍が立てこもった日本料理「幸楽」も焼失している。 ホテルニュージャパンは1982年2月8日に火災事件を起こし営業停止処分を受けて廃業したが、ニューラテンクォーターはその後もひっそりと営業を続けた。しかし、1989年5月27日に当時のオーナーであった櫻井義晃(廣済堂創業者)が店を閉じた〔。 特徴として、チャージ(料金)が高額であったとする証言がある。ショーを観劇させるニューラテンクォーターは国内外国から歌手やタレントを招聘した。その中にはルイ・アームストロング、ナット・キング・コール、ダイアナ・ロス、パティ・ペイジ、サミー・デイヴィスJr.、森進一、朝丘雪路、いしだあゆみ、五木ひろし、ピンク・レディーらがいた。専属司会者にE・H・エリックがいた。出演交渉はキョードー東京の前身である協同企画が行なった。協同企画には社長の永島達司、幹部の内野二朗、嵐田三郎がいた〔〔野地秩嘉『ビートルズを呼んだ男―伝説の呼び屋・永島達司の生涯』(幻冬舎、2001年)〕。 1963年に力道山の刺傷事件が起きた(詳細は力道山を参照)。 行政警察としては所轄署の麹町警察署が管轄し、風俗営業法等のもとで取締りにあたっていた。やくざの縄張りは住吉一家の勢力圏にあったため住吉一家は住吉連合本部長の小林楠扶を顧問としてつけていたとも、実際の後見役は児玉機関であったとも証言がある〔。藤山愛一郎も児玉誉士夫も国家的見地からナイトクラブ建設に乗り出したのではないかとする見方がある〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ニューラテンクォーター」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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