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ニンマ派 : ウィキペディア日本語版
ニンマ派[にんまは]

ニンマ派は、チベット仏教四大宗派における最古の流れの呼び名である〔残りはサキャ派カギュ派ゲルク派。〕。正式には「ンガギュル・ニンマパ(旧訳古派)」といい、9世紀まで続いた古代吐蕃時代‎に翻訳された古タントラ(古訳密教経典〔旧訳の「秘密儀軌」のこと。大乗経典のスートラに対して、タントラの語を用いる。〕)に依拠する古い宗派であることを意味する。他の三宗派と同じように声聞独覚乗(狭義の小乗)・菩薩乗(大乗)・秘密真言乗(金剛乗)の三乗を併修することを説く。
後期密教のタントラの一つである「幻化網タントラ」(梵:マーヤージャーラ・タントラ)〔梵本は発見されていないが、リンチェンサンポによるチベット訳『幻化網なるタントラ王』がある(松長有慶編著 『インド後期密教(上)』 春秋社 p86 参照)。〕の旧訳とされる「」(梵:グヒヤガルバ・タントラ)〔通称チベット名「サンワ・ニンポ」、通用サンスクリット名「グヒヤガルバ・タントラ」 、和訳名「秘密蔵タントラ」または「秘密心髄タントラ」。ニンマ派においてマハーヨーガのタントラ部に分類される幻化網(ギュントゥルタワ)タントラ群の「十八大部」に属し、それらを縮約した中心的タントラとして重んじられる。訳者はパドマサンバヴァの二十五大弟子のひとりに数えられるとされる。〕を依経として、本性清浄(カダク)・無為自然(ルンドゥプ)を説く「ゾクチェン」(ゾクパ・チェンポ、大いなる完成〔大円満、大究竟とも漢訳。〕)を最奥義とする密教の教義、大成就法の分類方法が新訳諸宗派と異なる。
==歴史==

===起源===
760年前後、チベットでは数十年前に伝来した仏教と伝統宗教のボン教との間で対立が生まれようとしていた。仏教に帰依していた吐蕃‎を統べるチベット王ティソン・デツェンは、インドからパドマサンバヴァナーランダ大学の僧シャーンタラクシタを招聘した〔立川 p.33〕。ティソン・デツェンは仏教の聖典であるダルマの全てをチベット語に翻訳するよう依頼した。パドマサンバヴァ、シャーンタラクシタ、108人の翻訳家、パドマサンバヴァの直弟子25人がこの巨大な翻訳プロジェクトのために長年を費やした。この業績が後のチベット仏教に大きな影響を与えることになる。パドマサンバヴァは、主としてタントラ密教経典)の翻訳監督を、シャーンタラクシタはスートラ(小・大乗経典のこと〔冒頭に「仏説」とあるため、慣習的に釈迦の説話とする。〕)を担当した。また、パドマサンバヴァとシャーンタラクシタは協力してサムイェー寺の建設に当たり、767年に建設を開始し、771年に〔サムイェー寺の建立については諸説あるところである。「賢者喜宴」には開始763-774年終了とあり、「西蔵王臣記」には開始767-771年終了とある。日本における吐藩の歴史研究を参考にティソン・デツェン王の生没を(Khrisrong lde brtsan:生742年-没797年)とし、在位を(755年頃-797年)と比定。また、サムイェー寺の完成を「西蔵王臣記」に基づく771年、「サムイェー寺の宗論」を792年とする。〕〔『チベット(下)』(山口瑞鳳 著)、p27表。〕〔『古代チベット史研究』(佐藤長 著)、pp.391-497。〕落慶している。
サムイェー寺はその後長い間、チベットの聖典翻訳の拠点となった。
この時、僧に7つの位階が初めて制定された。また中国人僧の摩訶衍(まかえん:中国語でマハーヤ-ナの音写、訳して大乗和尚)を宗論の末にチベットから追放し、禅宗を異端とし、インド仏教を国是と定めている〔『チベット入門』(ペマ・ギャルポ 著)〕
。これらの活動が基礎となり、チベットに無上瑜伽タントラを基にした仏教が確立した。
ニンマ派の考証家でもあった故ドゥジョム・リンポチェの教えによると、歴史上のグル・パドマサンバヴァが伝えたインド密教の修法の主なものは、「ゾクチェン」、「大幻化網タントラ」、「八大ヘールカ」と「前行」(四加行とも表記)等である。
840年代頃から、ランダルマ王の時代にボン教徒と仏教徒の間の政治宗教上の対立が原因となって混乱が起こり、吐蕃王朝が滅びたため、王家の保護を失った仏教は表面上は衰退したように見えたが、仏教徒となっていた有力氏族の家系に受け継がれた〔代表的な氏族としては、ソ家、スル家、ヌプ家、ニャク家、ニャン家、マ家などが挙げられる。その多くは、仏教導入以前から土着の宗教儀礼を司る家系であった。〕。彼らは、在家の密教行者集団を形成しながら中央アジアや中国からも学僧を招き続け、古タントラ文献の翻訳活動を継続した。これらの古タントラが、ニンマ・カマ(伝承経典:ルン・アーガマ)とも呼ばれる文献であり、後に発展するニンマ派の教義の典拠となった。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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