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ニールス・ヴィルヘルム・ガーデ : ミニ英和和英辞書
ニールス・ヴィルヘルム・ガーデ[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

ニールス・ヴィルヘルム・ガーデ ( リダイレクト:ニルス・ゲーゼ ) : ウィキペディア日本語版
ニルス・ゲーゼ[ちょうおん]

ニルス・ウィルヘルム・ゲーゼ(またはガーゼガーデ、Niels Wilhelm Gade, 1817年2月22日 - 1890年12月21日)は、デンマーク作曲家指揮者・音楽教師。北欧諸国の音楽界の近代化に貢献した。
== 生涯 ==
コペンハーゲンの楽器職人の家庭に生まれ育つ〔LP『C. Nielsen String Quartet in G Minor, Op. 13 / N. Gade String Quartet in D Major, Op. 63』ライナーノーツ(1967年、ワーナー・パイオニア、コペンハーゲン四重奏団)〕。17歳でコペンハーゲンの王室オーケストラでヴァイオリン奏者として活動を開始し、1842年、自作の《交響曲第1番》を提出するが、コペンハーゲンでは演奏が拒否された。しかし、これをフェリックス・メンデルスゾーンに送付したところ、積極的に受け入れられ、1843年、メンデルスゾーンの指揮でライプツィヒで初演してもらうことができた。そこでゲーゼも同地に転出、ライプツィヒ音楽院で教鞭をとるかたわら、ゲヴァントハウス管弦楽団の副指揮者を務めた。メンデルスゾーンと親交を結んで、創作活動において重要な影響を受けたほか、ロベルト・シューマンとも親しくなった。
1847年に恩人メンデルスゾーンが没すると、ライプツィヒ・ゲヴァントハウスの首席指揮者の地位を引き継いだが、翌1848年にデンマークとプロイセンの紛争(第一次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争)が勃発するとデンマークに戻った。その後はコペンハーゲン音楽協会の終身総裁に就任し、新たにオーケストラや合唱団を設立した。また、オルガン奏者としての活動も始め、ヨハン・ペーター・エミリウス・ハートマンからコペンハーゲン音楽院院長職を引き継ぐ。1852年にはハートマンの娘と結婚した。晩年は北欧の音楽界に権威ある教育者として名をなし、後にエドヴァルド・グリーグカール・ニールセンらに影響を与えた。コペンハーゲンにて没。
北欧の作曲家としては、「ソナチネアルバム」にも名を残したフリードリヒ・クーラウや、デンマーク国外の進歩的な作曲家と親交を結んでいたハートマン親子も諸国で名声を博したが、特にソナタ形式に関係する器楽ジャンル、交響曲や室内楽を重視したという点において、ゲーゼが北欧音楽史上に果たした功績は大きい。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「ニルス・ゲーゼ」の詳細全文を読む




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