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ニール・ジョンストン(Donald Neil Johnston,1929年2月4日 - 1978年9月28日)はアメリカ合衆国の元バスケットボール選手。出生地はオハイオ州チリコシー、出身大学はオハイオ州立大学。1950年代のアメリカ男子プロバスケットボールリーグNBA、フィラデルフィア・ウォリアーズで活躍したビル・ラッセル登場以前のリーグトップセンターであり、1956年には同チームを優勝に導いた。1990年には殿堂入りを果たしている。 ==経歴== ニール・ジョンストンことドナルド・ニール・ジョンストンは、オハイオ州立大学入学当初は無名の選手で、1年目は7試合の出場で1.9得点と寂しい成績に終わった。2年目のシーズンには成長が見られ、20試合の出場で9.0得点の成績を残した。 大学時代のジョンストンは野球選手の面で先に頭角を現し、在学中にはMLBのフィラデルフィア・フィリーズと契約を結び、下部リーグのテレホート・フィリーズで2年半、投手としてプレイし、その間カレッジバスケは休業状態となった。結局プロ野球選手としては芽が出ず、最後のシーズンを3勝9敗という成績で終えた後、プロバスケットボール選手になることを決意した。彼のマネージャー、ジム・ワードの支援のもと、NBAのフィラデルフィア・ウォリアーズのチームキャンプに参加。見事1951-52シーズンのロスター入りを果たし、ジョンストンのNBAでの生活がスタートした。 バスケット選手としては目だった実績のないジョンストンだが、1年目のシーズンはエド・マイカンの控えセンターとしてプレイし、6.0得点5.3リバウンドとまずまずの成績を残した。当時のウォリアーズはジョー・ファルクス、ポール・アリジン、アンディ・フィリップら好選手を揃えたリーグ屈指の強豪チームだったが、ジョンストンが加入したこのシーズンは33勝33敗と成績が落ち込み、さらにはオフにアライジンがチームを離脱するという事態に見舞われ、翌1952-53シーズンは12勝57敗という大不振に陥る。このチームの窮地に立ち上がったのがジョンストンであり、ジョンストンがリーグのトップセンターに上り詰める契機となった。ジョンストンはこのシーズンにリーグ史上稀に見る大成長を遂げ、前季の6.0得点から22.3得点13.9リバウンドと一気に数字を伸ばし、得点王を獲得。さらにオールNBA1stチームにも名を連ね、名実共にリーグトップセンターに君臨する。ウォリアーズはジョンストンのあまりの変貌振りと、チームのあまりの不振ぶりにチームの大改造を決意し、主力選手だったフィリップとマイカンを放出することで、ジョンストン中心のチームとして再出発を図ることにした。 翌1953-54シーズンにはジョー・グラボウスキーやジャック・ジョージらが加入したことでウォリアーズの新しい核が出来上がると、さらに続く1954-55シーズンには一時NBAを離れていたアライジンがウォリアーズに復帰し、ウォリアーズの陣容は充実さを増した。そしてジョンストンはトップセンターとしてますます成長し、3シーズン連続で得点王に輝き、1954-55シーズンには1631得点(平均22.7得点)1085リバウンド(平均15.1リバウンド)を記録して得点王とリバウンド王の二冠を達成したリーグ最初の選手となった。 そして1955-56シーズン、ウォリアーズは45勝27敗の好成績を記録して4シーズぶりにプレーオフに進出すると、プレーオフを勝ち抜いてファイナルに進出し、フォートウェイン・ピストンズを4勝1敗で破って優勝を果たした。 以後もジョンストンは毎晩20得点10リバウンド以上を稼ぎ出す優秀なセンターとして活躍するが、ウォリアーズは1956年の優勝を頂点に停滞する。そしてウォリアーズでの8シーズン目を迎えた1958-59シーズンにジョンストンを膝の故障が襲い、28試合に出場した後、現役から退いた。 NBA通算成績は516試合の出場で10023得点(平均19.4得点)5856リバウンド(平均11.3リバウンド)だった。 引退後の翌1959-60シーズンからウォリアーズのヘッドコーチに就き、2シーズンに渡って采配を振った。通算成績は95勝59敗、勝率.617だった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ニール・ジョンストン」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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