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ピエール・ンクルンジザ(Pierre Nkurunziza, ヌクルンジザ〔国連 フランス通信社・2015年5月15日観覧〕とも、1963年12月18日 - )はブルンジの政治家で大統領。フツ。フツ系出身としては選挙で選ばれた2人目のブルンジ大統領となる。また1993年からの後、最初の民主的な選挙(間接選挙)による大統領である。 == 来歴 == 首都ブジュンブラ生まれ。父ユスタシュ・ンガビシャ (Eustache Ngabisha) はフツの政治家で、1965年にブルンジ国会の議員となる。のちに2州の知事を歴任するが、フツの虐殺が起きた1972年に殺害された。母はツチである。 ピエール・ンクルンジザはンゴジ県で初等教育、ギテガで中等教育を受け、ブジュンブラ大学で教育とスポーツを専攻、1990年に卒業。卒業前は、初等学校および中等学校の教師を勤めた。 メルシオール・ンダダエの暗殺による1993年のブルンジ内戦勃発時には、ブジュンブラ大学の講師。1995年から反政府闘争に参加。フツ系の反政府武装集団民主防衛国民会議/民主防衛軍 (CNDD/FDD) の兵士となった。 後に ''IRIN'' のインタビューに応じて反政府闘争に入ったいきさつをこう語っている。「キャンパスがツチに襲われ200人の学生が殺された。ツチは私も殺そうとした。彼らは私の車を撃ったが、私は逃げた。彼らは私の車にかすった。それからCNDD-FDDの兵士になった。我々は戦争を強いられたのであり、我々が戦争を始めたわけではないのだ」〔BURUNDI: IRIN interview with Pierre Nkurunziza, leader of CNDD-FDD , ''IRIN'', 23 August 2004.〕 1998年にCNDDとFDDは分裂し、2001年にンクルンジザはFDD司令官ジャン=ボスコ・ンダイケグルキエ (Jean-Bosco Ndayikengurukiye) を倒して主流派となり〔''UK Home Office Immigration and Nationality Directorate Country Assessment - Burundi '', 1 April 2002.〕、CNDD-FDDの指導者となる。CNDD-FDDが和平合意に応じた後、2003年末から暫定政府に閣僚として参加。2005年7月に行われた国政選挙で、上院・下院とも政党となったCNDD-FDDが勝利し、8月19日、上下院議員による選挙で、圧倒的な大差により大統領に選出され、2005年8月26日、正式に大統領に就任した。2010年6月28日の大統領選挙では対立6候補が全員選挙をボイコットし、再選された。 2015年4月、3期連続の大統領職を目指すと宣言したことにより抗議デモが発生している〔国連 フランス通信社・2015年5月15日観覧〕。7月21日、野党がボイコットする中で行われた大統領選挙で当選し、3期目に入った。反大統領派は3選を禁止する憲法に違反するとして批判しており、アメリカ合衆国のジョン・ケリー国務長官は選挙を非民主的と批判した〔ブルンジ大統領選「非民主的」 米国務長官が声明 日本経済新聞〕〔ブルンジ大統領選:現職が3選 毎日新聞〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ピエール・ンクルンジザ」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Pierre Nkurunziza 」があります。 スポンサード リンク
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