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ヌーリー・アッ=サイード : ミニ英和和英辞書
ヌーリー・アッ=サイード[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

ヌーリー・アッ=サイード : ウィキペディア日本語版
ヌーリー・アッ=サイード[ちょうおん]

ヌーリー・パシャ・アッ=サイードアラビア語:نوري باشا السعيد、‘Nuri Pasha al-Said、1888年 - 1958年7月15日)は、イギリス委任統治領メソポタミア時代とイラク王国時代のイラクの政治家である。幾つもの重要な閣僚ポストを歴任し、首相を計7期務めた。
最初に首相に任命されたのはイギリス統治時代の1930年のことである。王政時代にはイラク政界の実力者だった。数度にわたる首相在任中、近代イラク国家を形作った幾つかの重要な政治決定にも関わっており、にも調印した。イラクの独立に向けての条約だったが、イギリス軍の国内駐留と通過を認め、イギリスにイラクの石油の支配権も認めるものであった。この条約でイギリスによるイラク国内政治への関与が縮小されるというのは名ばかりで、実際にはイラクはイギリスの経済的・軍事的権益と衝突しない領域でしか行動できない状態であった。条約により名目的な独立は進み始め、1932年にイギリスの委任統治が終了した。ヌーリーは常にイラク国内に残留し続けるイギリス勢の支持者であった。これらの政策は論争を引き起こすことなった。
多くの敵にとって論争の的になり、クーデターの余波で2度もイラクから逃れることになった。1958年の王政打倒クーデター(7月14日革命)が起きる頃には、民衆にとって嫌われる存在となっていた。彼の政策は親イギリス的であり、イラクの社会状況の変化への対応に失敗したと信じられていた。当時、貧困と社会的格差が広がっており、ヌーリーはそれらの対応に失敗している体制の象徴となった。また、富裕層の利益を護るよりも弾圧することを選んだ。1958年7月15日(7月14日革命の翌日)、女性に変装して国外に逃れようとしたが、捕まり殺害された。
==出生と初期の経歴==
ヌーリーはバグダード中流階級下層のトルコ系スンナ派イスラム教徒の家族に生まれた〔وجوه عراقية,توفيق السويدي, p. 83〕。彼の父親はオスマン帝国政府の無名の会計士だった。1906年イスタンブルの軍事大学を卒業し1911年オスマン帝国軍の将校として訓練を受けた。1912年には伊土戦争リビアに派遣された。第一次世界大戦時、アラブナショナリズムを支持するようになり、ヒジャーズの首長・ファイサル・イブン・フサイン(後のファイサル1世)のもとでアラブ反乱に加わった。後に短期間のみ国王に就任し、その後、イラク国王となった。ファイサルの下に従軍していた他のイラク人将校と同じく、新しい政治エリートの一部として台頭した。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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