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ネイル・グアイ : ウィキペディア日本語版
ネイル・グアイ

ネイル・グアイNeil Guay1942年7月21日 - )は、カナダの元プロレスラーケベック州マタン出身のフランス系カナダ人
ザ・ハングマンThe Hangman)などのリングネームで知られ、覆面レスラーとしても活躍した。
== 来歴 ==
警察官で、現職時代は柔道の達人であったという。退職後〔凶悪犯逮捕時、犯人への過度な暴行が原因で免職されたという(ミスター高橋『幽霊軍団にギブアップ』1984年、ベースボール・マガジン社 / ISBN 4583024274)。〕、地元のケベックにてプロレスラーとしてデビュー。当時はル・ボレー(''Le Bourreau'')(=死刑執行人)というリングネームだった。モントリオールのグランプリ・レスリングやインターナショナル・レスリング、マリタイム地区イースタン・スポーツ・アソシエーションなどで活動後、1974年末に覆面レスラーのスーパー・デストロイヤー(''The Super Destroyer'')に変身し、翌1975年4月に新日本プロレスの『第2回ワールド・リーグ戦』に初来日。公式戦では11勝3敗1分けという好成績を残した。
リーグ戦終了直後の韓国遠征にも参加し、5月23日に奨忠体育館にて大木金太郎インターナショナル・ヘビー級王座に挑戦。試合後に覆面を剥がされ素顔を曝している。そこで今度はカルガリースタンピード・レスリングにて、タワーリング・インフェルノ(''The Towering Inferno'')〔1975年に大ヒットしたパニック映画タワーリング・インフェルノ』にあやかり、タイトルをそのままリングネームに使用したもの。来日時は「炎上仮面」なる異名が付けられた。〕なるマスクマンに再変身し、ドン・レオ・ジョナサンらと抗争。ブッチャー・ブラニガンドン・ガニアミスター・ヒトギル・ヘイズヒール勢と共闘し、エディ&ジェリー・モローが保持していたインターナショナル・タッグ王座にも挑戦した。このギミックで1976年4月の『第3回ワールド・リーグ戦』に再び来襲するが、負傷により途中欠場するなど、前年のような活躍は果たせなかった。
帰国後、黒覆面のザ・ハングマン(''The Hangman'')を名乗って太平洋岸のNWAロサンゼルス地区に出現。絞首刑用のロープを手にした怪ヒールとして頭角を現し、1976年9月3日にチャボ・ゲレロを破ってアメリカス・ヘビー級王座を獲得、10月29日にはロディ・パイパーと組んでアメリカス・タッグ王座も奪取。ミル・マスカラスとのマスクマン対決も行っている。1977年には素顔のネイル・グアイ名義でテキサス西部のアマリロ地区にも遠征、ドリー・ファンク・ジュニアテッド・デビアス、アメリカ武者修行中の天龍源一郎らと対戦した。
以降もLAを主戦場に、1977年5月からはベビーフェイスに転向してキース・フランクス(後のアドリアン・アドニス)と熾烈な抗争を展開。一時はフランクスに覆面を剥がされたが、報復として彼の髪の毛をカットしている〔『別冊ゴング』1977年7月号 P138-139(1977年、日本スポーツ出版社)〕。フェイスターン後のLAではプロフェッサー・タナカタンク・パットンブル・ラモスともアメリカス・ヘビー級王座を争った。同年8月、ザ・ハングマン名義で新日本プロレスの『闘魂シリーズ』に通算3度目の来日。スタン・ハンセンブラックジャック・マリガンとの超大型外国人トリオの一角として、9月29日に大阪府立体育館にて、ハンセンと組んで坂口征二&ストロング小林北米タッグ王座に挑戦した。なお、同シリーズにはLAでの盟友ロディ・パイパーも初来日を果たしている。
1978年ジョン・ルイ(''John Louie'')のリングネームで素顔となってテネシー州メンフィスCWA(旧NWAミッドアメリカ)に登場。ソニー・キングマネージャーに迎えて再びヒールとなり、4月24日のミッドサウス・コロシアムではジェリー・ローラーとの髪切りマッチが行われた〔。タッグでは同じフランス系カナダ人ジョー・ルダックをパートナーに、ジェリー・ローラー&ジミー・バリアントの人気コンビと南部タッグ王座を争った。
その後はフランス名のジャン・ルイ(''Jean Louie'')の名義でカナダに戻り、1979年5月14日にバンクーバーでNWAパシフィック・コースト・ヘビー級王座を獲得。同地区ではボビー・ジャガーズらとタッグを組み、ジン・キニスキーダッチ・サベージ、因縁のアドリアン・アドニスとも対戦した。
1979年末よりAWAに転戦し、またもや覆面レスラーに変身。スーパー・デストロイヤー・マークII(後のサージェント・スローター)のパートナー、スーパー・デストロイヤー・マークIII(''The Super Destroyer Mark III'')を名乗り、大型マスクマン・チームを結成する。当時バーン・ガニア&マッドドッグ・バションが保持していたAWA世界タッグ王座にも再三挑戦したが、後に仲間割れを起こし、マークII(スローター)はボビー・ヒーナン、マークIII(グアイ)はロード・アル・ヘイズをマネージャーに覆面レスラー同士の抗争も行った。
1980年下期からは再び覆面を脱ぎ、素顔のザ・ハングマンとしてWWFに進出。フレッド・ブラッシーをマネージャーに迎え、ボブ・バックランドWWFヘビー級王座ペドロ・モラレスインターコンチネンタル王座に再三挑戦、ブルーノ・サンマルチノリック・マーテルとも対戦し、ニューヨークマディソン・スクエア・ガーデンにも登場した。同年8月9日、アントニオ猪木も出場したシェイ・スタジアムでのビッグ・イベント "Showdown at Shea" では、レネ・グレイを相手に勝利を飾っている。11月には新日本プロレスの『第1回MSGタッグ・リーグ戦』に、アンドレ・ザ・ジャイアントのパートナーとして通算4度目の、そして素顔では初の来日を果たす。決勝戦には進めなかったものの、スタン・ハンセン&ハルク・ホーガン組とのスーパーヘビー級タッグ対決は話題を呼んだ。
その後は地元のモントリオールに定着し、ジノ・ブリットディノ・ブラボーらが運営していたインターナショナル・レスリング(Lutte Internationale)にて、スウェード・ハンセンクレージー・セーラー・ホワイトとのタッグなどで活動していた。1986年に引退したが、5年後の1991年に交通事故で重傷を負って以来、杖歩行を余儀なくされたという〔。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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