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ネウストリア (Neustria)(ノイストリアとも)またはネウストラシア (Neustrasia)は、511年に始まったフランク王国において新たな(西の)土地を意味する地域(neuは新しいを意味する)。アキテーヌからイギリス海峡までを指し、現在のフランス北部のおよそ全体、都市はパリとソワソンを含む。従ってネウストリアは、フランク人王国の西部を形成した。6世紀から8世紀にはメロヴィング朝支配下にあった。この区別された一帯は、511年のクロヴィス1世の死後に彼の息子たちの間で領土分割が行われたことで生まれた。後に、セーヌ川とロワール川の間の地域が''レグヌム・ネウストリアエ''(''regnum Neustriae'')として知られる地域となった。これはカロリング朝、西フランク王国の分王国として継続した。カロリング朝の王たちは、ブルトン人とヴァイキングに対する辺境公(Duchy)である、ネウストリア辺境侯領も創設した。この侯領は、カペー朝時代の10世紀末まで続いた。 ネウストリアはまた、ロンゴバルド族統治下において、北西イタリアを指す用語としても用いられた。ネウストリアと対照となる北東部はアウストラシアと呼ばれ、この語は同様にフランク王国東部を指す用語でもあった。 == メロヴィング朝 == クロヴィス1世の子孫らによって定期的に領土再分割がなされた結果、200年以上の間多くの王侯が現れることになり、アウストラシアとともにネウストリアもほぼ定期的に戦禍に見舞われた。 相次ぐ戦争にもかかわらず、ネウストリアとアウストラシアは数回事実上の再統合を経験している。最初は558年から562年まで治めたクロタール1世時代であった。ネウストリア王妃フレデグンド(キルペリック1世妃)と、彼女の息子の新しい王クロタール2世とがアウストラシアの王妃ブリュンヒルダとの勢力争いを続けたことが苦い戦争を勃発させた。 フレデグンドが死に、サン=ドニ大聖堂に埋葬されると(597年)、クロタール2世はアウストラシア王妃ブリュンヒルダとの抗争を続け、ブリュンヒルダが家臣に裏切られた613年についにクロタール2世が勝利した。クロタールはブリュンヒルダを拷問台に縛り付け3日間放置させ、その後4頭の馬の間に鎖でつながせ、四肢を八つ裂きにした。クロタールはアウストラシアとネウストリアの統合を達成したが、これは短期間で終わった。 ダゴベルト1世(在位:628年-637年)時代、進行中の一族間の戦争がそれとは別の一時的な統合をもたらした。アウストラシアでアルヌルフ家の宮宰大グリモアルドが君主に対してクーデターを起こした。(グリモアルドの息子キルデベルトをシギベルト3世の養子にしたが、シギベルト3世に、偶然ダゴベルト2世が生まれたため、ダゴベルトをアイルランドの修道院などに追放しようとしていた)。ネウストリアの王でシギベルトの弟クロヴィス2世は大グリモアルドを排除し、王国をネウストリアへ再統合した。しかし一時的なものであった。クロヴィス2世の子クロタール3世の治世後、ネウストリアの王家は、以前のアウストラシアの王家同様、自身の宮宰に対し権限を割譲した。 678年、宮宰エブロインの治下にあったネウストリアはアウストラシアを征服した。エブロインは681年に殺害され、684年にエブロイン自身の土地であるポワティエの司教アンソワルドは、エブロイン最大の敵であった聖レオデガー(679年に殉教)に自らの命を託した。687年、アウストラシアの宮宰ピピン2世はトルトリー(現在ソンム県のコミューン)でネウストリアを破り、今度はアウストラシアの側からアウストラシアとネウストリアを統合した。アウストラシアで暮らしていた年代記作者らは、自分たちの宮宰ピピン2世へさらに忠義を示した。 ピピンの子孫たち、カロリング朝の人々は、宮宰として2つの王国を支配し続けた。ローマ教皇ステファヌス2世の祝福を受け、751年以降カロリング朝のピピン3世は正式にメロヴィング朝を王座から追放し、帝国の実権を掌握し、彼と彼の子孫らが王として支配した。 ネウストリア、アウストラシア、そしてブルグンドは一つの権力の元で統合するようになり、ネウストリア、アウストラシアの名前は次第に消滅していった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ネウストリア」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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