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ネ・ウィン(、1910年5月14日〔ミャンマーでは呪術に利用されるのを避けるため、政府要人は自身の正確な生年月日を公表しておらず、ネ・ウィンもその一人であった。そのため、訃報では没年齢が91歳・92歳・93歳の3通りあった。ネ・ウィンの孫によれば実際には没年齢は92歳であったという(おまじない政治学:深層ミャンマー/1 政権中枢「黒魔術怖い」 毎日新聞 2015年9月10日 東京朝刊)。〕 - 2002年12月5日)は、ビルマ(現在のミャンマー)の軍人、政治家。本名はシュ・マウン。独立運動の功労者であり、独立後、軍参謀総長、革命評議会議長、大統領、ビルマ社会主義計画党 (BSPP) 議長を務めたが独裁者として非難された。日本名は高杉晋。 == 生涯 == 1910年に華人の血を引くビルマ人家庭に生まれ、医師を希望していたが諦めてラングーン大学を中退する。郵便局員を経て「」( ; )に加入する。援蒋ルート壊滅のためにビルマに目を付けた日本軍と接触。1941年2月にアウンサン率いる青年活動家グループ「三十人の志士」の一人として海南島で南機関から過酷な軍事訓練を受けた。彼らは12月にバンコクに移動しビルマ独立義勇軍を結成。ネ・ウィンは、国内撹乱を目的とするゲリラ班の班長として1942年1月に日本軍とともにビルマに進軍した。日本の敗勢が明らかになった1945年3月には、対日蜂起して日本軍を攻撃した。 イギリスの復帰を経て1948年ビルマは独立するが、その直後から反乱が続いた。また、シャン州やカチン州では中国国民党の残党が中国から侵入し、実効支配する有様であった(中国共産党に対する大陸反攻の拠点として、アメリカ合衆国はビルマ政府を半ば無視する形で公然と国民党部隊に軍事援助を行なった)。当時のビルマ国軍は、旧ビルマ国民軍、それと対立するカレン族将校団をはじめ、ビルマにおける様々な政治勢力の寄り合い所帯であった。このため、ビルマ軍においては少数民族出身者や左翼系の将兵を中心に脱走・離脱が相次ぎ、一時的にビルマ政府の支配力はラングーン周辺までに減退させられた。このときウー・ヌ政権において、国軍の最高指揮官(国防相)だったネ・ウィンは、旧ビルマ国民軍出身者を優先的に起用し、カレン族やカチン族など少数民族の将兵を罷免するなどして(このとき放逐された部隊と将兵達が、カレン民族解放軍やカチン独立軍といった民兵組織の基礎となった)、ビルマ族を中心とした国軍への立て直しに成功する。海外からの軍事物資の支援を例外として、ほぼ自力で平野部でのビルマ政府の支配権を回復させるまでに至る。また、中国国民党残党に対して、ウー・ヌが国連においてその存在を非難するとともに、中華人民共和国の人民解放軍と連携しシャン州で掃討作戦を展開するなどして、ビルマ国内からの排除に成功した。また、ビルマ共産党は国軍の反撃によって1960年代前半までに、平野部における解放区や陣地の大半を失う事となった。 こうした実績に自信がついた1962年には、クーデターを決行して政権を握った。ビルマ独自の社会主義政策(ビルマ式社会主義)を採り、革命評議会議長を経て1974年から大統領になった。7年後に辞職した後もビルマ社会主義計画党 (BSPP) 議長を務め国政に君臨した。この期間のビルマは、外交では厳正な中立政策を採り、ビルマ共産党や各地の少数民族民兵組織との内戦において、諸外国の介入を防ぐ事に成功する。1965年以降、ビルマ共産党への大規模な支援を開始した中国との緊張関係を除けば、ベトナム戦争など近隣諸国の混乱に巻き込まれずに済んだ。しかし、経済政策では完全に失敗し世界の最貧国に転落した。 1988年に国民の不満が爆発した民主化要求デモ(8888民主化運動)が発生。責任を取って党議長を辞任したが、その時の演説では「軍は国民に銃口を向ける」と民主化勢力を牽制した。辞任後も隠然たる影響力を持ち晩年は、それまでの外交における中立姿勢にもかかわらずアメリカを批判していた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ネ・ウィン」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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